検討論点リスト2 - 〈包摂/排除〉の最適化

これは [2006] からあらたに登場する論点。[2007] にもほぼ同じ形で登場。[2007] のほうがちょっとだけ分量が多いか。

→著者における「規範理論」への接続点か?

システム評価観点としての「〈包摂/排除〉の最適化」:

〔リスク社会:2006〕
ルーマン派システムの一般的アプローチ―社会の音響学 - 3 システム論のイメージの転換 - (二)問題意識の転換 包摂/排除−分析
[...]

 社会の場合も、コミュニケーションの広がりの射程が大きくなるほど、また、人々の社会の中での位置の隔たりが大きいほど、<同一>の社会を今生きながらの経験の<差異>は大きくなるだろう75私見によれば、だからこそルーマンは、コミュニケーションの射程を拡大する文書メディアの開発その他にアンバランスとも言えるほどの関心を寄せているし、相互行為−組織−機能システムという社会システムの分類で言えば、もっとも射程の大きい機能システムの分析を優先させてきたのである。こうした同じ社会に住まう人間同士の経験の同一性と差異性の断絶が、[...]「内外イメージ」によってはシステム内が単色のイメージに染め上げられる結果、視野から欠落してしまうのである。

 このことは、ルーマンの包摂(Inklusion)/排除(Exklusion)という対概念を導入するとよりよく理解できる。ルーマンは、ある人格(Person)がある社会システムを構成するコミュニケーションの名宛人になっているとき、その人格はそのシステムに「包摂」されているといい、名宛人になっていないとき「排除」されている、と言う。

 [...]だとすると、<同一>の社会に住まう諸個人のつむぐ生は、どの社会システムにどのような形で包摂/排除されるかによって大幅な<差異>をもつことになる。したがって、理論家が個々人の生のあり方に関心を持つ場合は言うまでもなく、社会システムの挙動それ自体に関心を集中する場合でも、あれこれの社会システムに、ひいては全体社会システムに、あれこれの人格がどのように包摂/排除されているかが、重要な関心事たらざるをえない。コミュニケーションの名宛人となった人格がそのコミュニケーションを受けて次のコミュニケーションの発信者になることによって、社会システムは進行していくのであるから。思うに、近年のルーマン派において、包摂/排除が一大重要テーマとして浮上している所以である78。 [p.58-60]

78) ルーマン派の機関紙と言える雑誌上で1巻を挙げてこのテーマが取り上げられているのはそのよい証左となろう。Vgl., 8 Soziale Systeme 1 (2002).
〔ざわめき:2007〕 「II システム論的観察 - 2 準拠問題の移動」
2 準拠問題の移動
 [...] ルーマンは、ある人格(Person) がある社会システムを構成するコミュニケーションの名宛人になっているとき、その人格はそのシステムに「包摂」されているといい、名宛人になっていないとき「排除」されている、と言う(Baraldi et. al. 1997: S. 78ff)。ある社会システムには多くの人間が関与しているのであるが、そのシステムと個人とのかかわりは、そのシステムへの包摂/排除のされかたによって大きく異なることになる。社会システムは前述したように複雑な内部構成を持っている。したがって、同じ包摂されているにしても、
  • その社会システムのどの位置で包摂されるのか(中心/周縁ー構造化)、
  • 大小のコミュニケーションの波動のどれにどのように包摂されているのか(異波長波動存在)、
  • コミュニケーション・ネットワークのどれにどのように包摂されるのか(コミュニケーション・ネットワークの組密存在)、
によって、個々人のその社会システムとの関係は大幅に異なってくることになる。そして、もろもろの社会システムの波動が重なり合っている様相の全体、それ自体がルーマンの言う全体社会なのであるが、だとすると、〈同一〉の社会に住まう諸個人のつむぐ生は、どの社会システムにどのような形で包摂/排除されるかによって大幅な〈差異〉をもつことになる(Nassehi 2000) 。
[...] ここで後論との関係で4点、注意しておきたい。[...]
  • 第二に、包摂が常に望ましいとは限らない。社会システムへの過剰包摂は個人の自律性を奪ってしまうかもしれないし、ある社会システムへの包摂が全体社会レヴェルでの包摂を逆に低下させるというような逆説的関係もありうる。たとえば法システムへの包摂は相互行為システムをぎこちなくしてしまうかもしれない。
  • 第三に、包摂/排除パターンについては、組織および手続のあり方に注目すべきである。組織や手続は、コミュニケーション参加者を限定する(=排除)する反面、包摂されるコミュニケーションは一定方向に濃密化されるからである(Luhmann 2000b; Abels & Bora 2005) 。これらに注目するいわばメゾ・レヴェルの法化論に今後の可能性の一つがある(Cf.,佐藤1998) 。
  • 第四に、いったん成立した包摂/排除の最適パターンもグローバル化、リスク社会化、個人化のもとではその前提条件が流動化しやすいので、不断の再編成が迫られることに十分な注意が必要である(Stichweh 2000; Japp 2000) 。

[...][p.111-112]

この論点には多いに疑問を覚える。
 〈包摂/排除〉は昨今の社会政策論〜社会科学におけるバズ・ワードであり、これ自体が説明を必要としている概念である。

たとえルーマン自身が採用しているのだとしても(そしてまた、たとえ「EU の偉い人が言っている」のだとしても)、こんな概念を「術語」として採用してよいとは思われない。

 ここでも他の論点と同様のことを指摘できる。「機能システムへの〈包摂/排除〉」という論点を特別扱い──して、さらにそこから「社会」を説明しようと──する前に、問われてよいことが幾つもある。なにしろ、そもそもどんな社会的システムについても、次のことが分析されなければならない筈ではないか。つまり、

  • 「人はどのようにコミュニケーションするか」
    (誰がどのようにコミュニケートするか)

ということだけでなく*、

  • 「人は どのようにして コミュニケーション参加者となるのか」
  • 「人は どのような コミュニケーション参加者となるのか」
    (コミュニケーションにおいて、人はどのようにして・どのような「誰か・何者か」になるのか)

ということが。

* 前者だけなら誰でもやっている。そうではなく、後者をも同時に・同じ資格で分析しようとするから、「コミュニケーションだけがコミュニケーションしうる」という──一見するとナンセンスにしか見えない──無理のある表現が要請されるのである。
・・・と述べたからと言って、私自身は この命題をこのままの形で使用しようとはまったく思わないが。

そして。
他の社会的システムについても問いうるこのことが、「機能システム」についても問われたとき*、それが「包摂/排除」と呼ばれるのだ とするならば、

  • そもそも「包摂/排除」は「基本的な術語」としては必要がない。そしてそれだけでなく、
  • そのような仕方で、「包摂/排除」概念自体もまた分析対象とすることができる
    つまり、「社会システム論」は、バズワードとして流布しまくっているこの概念自体を──コミュニケーションの分析 の中で・ともに、この概念に依拠せずに──分析することが出来る
    と主張できる筈である。
というか....。そのように主張できなければ、たいへんにマズいのではないだろうか。
* この点についての分析を「社会システム論」がきちんとなし得ないのだとしたら、それはただの「看板倒れ」だと言うべきだろう。(まぁ現状では ちっともできそうに見えない=看板倒れっぽいが。)

※ご参考: