承前。id:contractio:20110215
広告の誕生―近代メディア文化の歴史社会学 (現代社会学選書)
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- 序章 問題と方法
- 第1章 孤立する広告
- 第2章 散逸する広告
- 第3章 融解する広告
- 終章 遊歩の弁証法
メモ
ルーマンの「応用」について
- 常識的に考えて、特殊な場合を除き、〈広告である/ない〉は──広告の境界に関する主題ではありえても──広告(の生産や受容)という現象あるいは事態 の産出に関わる区別ではなかろう。
- 「広告である/ない」という区別は──「広告というコミュニケーション」にではなく──「広告についてのコミュニケーション」に関わるものであろう。
- 言い換えると、反省的なコミュニケーション(あるいは過程的なコミュニケーション)に関わるものではあっても、基底的なコミュケーションを特徴付けるものではなかろう。
- 「法とは〜である/ではない」といった主題や「何が法源なのか」という問いが、ふつうは (「妥当な法テクストを産出すること」に実践的に取り組んでいる)法曹実務家の問いとはならないのと同様に。
- つまりそれは「広告のコード」ではない。
- こうした作法は、「システムの存立(=統一性)を──基底的な水準ではなく──反省的な水準に求める」という偏見に由来するように思われる。
「意味」および「理解」概念──ひいては「意味論的」ならびに「解釈学的」なる表現──の不可解さ
- 「理解する」と「解釈する」を互換的に使っている。両者はまったく別物なのに、それを区別していないせいで、議論があちこちでワヤになっている。
そのせいで、
- 著者の「解釈学的」という語の用法を見ていると、ハイデガーが不憫でならない。
「一瞥してわかる」ことと「気散じ/注視」との関係
- 「気散じ/注視」でもって「近代」を特徴付けてしまう前に、「見る」の概念分析=論理文法分析を行うべき。