涜書:北田『〈意味〉への抗い』

2004年の著作。
2002年前後に書かれたものが多く、一番古いのは1998*年(第1章)。

* 奥づけは「1993」の誤植か。

■メモ:
〈意味/物質〉という区別を駆使してメディアの物質性を云々する論者には、そもそも「意味に関する心理主義批判」が欠けている──つまりフッサール以前的である──ように見える。

なので、まさにその位置から現象学批判が繰り出されることには目眩を覚えざるを得ない。

言い換えると。「コミュニケーションの導管モデル」を批判すると称して──心理主義批判抜きに──行われている議論は、「導管を流れる液体ではなく、導管の材質や形状を調べよう」と言っているかのようである。 ・・・これはちっとも「コミュニケーションの導管モデル」の批判には見えない。

  • メディア論の/という掛金

第I部 メディエーションの理論

  • 第1章 観察者としての受け手
  • 第2章 〈意味〉への抗い──中井正一の「媒介」概念をめぐって
  • 第3章 ヴァルター・ベンヤミン──反メディア論的考察 「メディア論」の文体をめぐって
  • 第4章 リアリティ・ワールドへようこそ リアリティ・テレビの現実性
  • 第5章 RE-PLICATION 複製 レプリカはアウラの衣を折り畳み、喪失の夢を見る

第II部 メディエーションの現場

  • 第6章 ポピュラー音楽にとって歌詞とは何か 歌詞をめぐる言説の修辞/政治学
  • 第7章 引用学 リファーする/されることの社会学
  • 第8章 〈キノ・グラース〉の政治学 日本-戦前映画における身体・知・権力
  • 第9章 声の消長 徳川夢声からトーキーへ

第1章 観察者としての受け手

「情報」「伝達」「観察」という言葉は禁止したい。

p.31 あたりに「解釈学的な「意味解釈」」なる表現が登場。参照先は受容美学など。

シャルチエの「受け手性の問題系」
  • [1] 身体性をもって受容空間に投企する「理念型的受け手」 [←シャルチエの主眼]
    [2] 統計的に社会的属性の持ち主として定義される「属性的受け手」
    [3] 意味(情報)解釈を遂行する「解釈学的受け手」
「メディアに媒介されたコミュニケーションは、対面的状況からのアナロジーでは理解できない」とか言われると、「それであなたは対面的状況については何がわかってるの?」と問うてみたくはなるよね。
解釈学的受け手/身体的(Kinetic)存在

初期(サイレント)映画において 観客(下層階級が主であった)は、けっしてスクリーン上で展開される物語narrative を正視しつつ解釈を加える[=映画テクストの意味内容を遡及的に解釈する]「解釈学的受け手」などではなく、むしろ歓声を張り上げたり、弁士とのやりとりに興じるといった、その場の祝祭的な雰囲気に身体的に投企するきわめて「身体的 Kinetic」な存在であった。[p.39]

水越伸によるメディアリテラシー概念の整理
  • [1] メディア機器使用能力
    [2] メディア鑑賞・享受能力
    [3] メディア活用・表現能力
まとめ: 「受け手のメディアリテラシー」について

p.40-41

我々は、様々なメディア受容の様相を射程に入れるためにも、受け手を 情報内容の解釈者としてではなく、コミュニケーションにおける〈情報(what)/伝達(how)-差異〉の観察者として捉える必要があるといえよう。そのとき、

  • [1] 情報を「担っている」メディアが特定の歴史的状況の中で、いかなる伝達の様式を持つと社会的に認識されているのか、
  • [2] 「理念型としての受け手」がどのようにそのメディアの受容空間に携わり(engage in)、身体的な投企をしているのか、
  • [3] そして [2] の携わりの様相が「属性的」に区別される受け手にどのような「解釈」を要請するのか、

といった問題がそれぞれある程度実定的な次元で問われなくてはならないだろう。

 このように考えるなら、我々は、受け手のメディアリテラシーなるものを、[1] [2] [3] の場合にわけて認識する必要があることとなる。

  • [1] の場合それは、特定の歴史的文脈のなかで、あるメディアに(社会的に)託された特定の機能を遂行できるメディア機器使用能力=「伝達次元の観察者」としての技能(a) を意味するだろう。
コンピュータの作動、キーボードの操作、VCRの録画操作、あるいは識字といった「ハード」を操る能力がここに含まれる。
  • また [2] の場合には、受け手は「情報/伝達-差異の観察者」として捉えられ、そこでのリテラシーとは「立ち読み」「ながら視聴」なども含む、「非-意味論的」なメディア受容空間に身体的に投企し、場の誘導性を享受する能力(b) ということになる。
既述の初期映画や、現代における漫画の受容のあり方を考えるとき、この一見「能力」とは映らないリテラシー概念が重要な意味を持ってくる。
  • そして [3] の場合であれば、メディアが伝達する情報内容を、社会的に固定された既成概念にとらわれず批判的に解釈しうる「解釈能力」=解釈学的能力(c) のことを意味することとなろう。
近年の批判的メディア研究の高まりのなかで、もっとも取り沙汰されているのはこの解釈学的リテラシー概念であるといえる。

著者自身が主眼とするのは──もちろん──(b)。

ところで、こうした定式化は、──「解釈」という言葉をぞんざいに用いることで──「技能・能力-と-意味・理解」の関係について問う可能性を 出発点で塞いでしまっているように見える。
そんなふうにしてしまった場合、「ではどんなふうに「能力」について研究したらよいのか」が分からなくなって(著者本人が困って)しまわないのだろうか。
別の言い方をすると、こうした研究は、少なくともそれが「能力」に照準したものである限りにおいては、エスノメソドロジーとの共闘は不可能ではないようには思われる。

第2章 〈意味〉への抗い 中井正一の「媒介」概念をめぐって

この章の議論には、「身体的kinetic である」ことと「文法をもつ」こと[p.62] との関連性に関する議論が必要であるはず。
  • 「直接性=無媒介性の思想」+「協働性の思想」
    • p.54-55〈共同性/協働性〉

第3章 ヴァルター・ベンヤミン──反メディア論的省察 「メディア論」の文体をめぐって

いったい いかなる権利を以って・どこから「失敗」について語っているのか。
  • p.80 〈in / durch〉

精神的本質は 自己を 言語において(in)伝達するのであって、言語によって(durch)ではない──すなわち、精神的本質は言語的本質に外側から等しいのではない。精神的本質は、それが伝達可能な限りにおいてのみ、言語的本質と同一なのである。[ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」in 『ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)』]

  • p.86- 「解釈学」vs「メディア論」という対立地平

第5章 RE-PLICATION 複製

p.138-139

 対照的に捉らえられることの多いベンヤミンアドルノだが、このようにして考えてみると、案外同じような地平に立っていたと考えうるのではないだろうか。かれらは

  • 〈1900〉的な複製技術により、それまでの書き込みのシステムが暴力的に変化を被り、データ処理の方法論が変位しつつあること、
  • 明示的には名指されえぬ何かが遡及的に「喪失されつつあるもの」として構成されているという同時代的心理を把握するにとどまらず、さらに、
  • [1] 「紙に刻み込まれた活字空間の向こう側に意味論的に了解さるべき何かがある(べし)」とする〈1800〉的な解釈学の王国には馴致されえない何かが出現しつつあること〔新たな書き込みのシステムの出現〕、そして、
  • [2] それは唯物論的ともいえる身体への直接的干渉を試みているということ〔新たな書き込みのシステムの非意味論的性格〕

を共通の了解事項としているように思われる。その唯物論的現実をベンヤミンは肯定し、アドルノは抗ったにせよ。
 むしろ問題なのは、複製技術論を介して、アドルノベンヤミンを対立させて捉えてしまう私たちの認識図式のほうである。

第8章 〈キノ・グラース〉の政治学 日本-戦前映画における身体・知・権力