【( ´∀`)著者さんと】【語ろう(°∀°)】シリーズ。
仕方がないのでもういちどこっち。
- 作者: J.N.モハンティ,貫成人
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 1991/02/01
- メディア: 単行本
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何度読んでも途中で訳語のお約束を忘れてしまいわけわかんなくなりがちなのでまとめておく。
■訳者まえがき。
英訳 | (固有名) | (概念語、文) | (作用、ノエマ) | ||
---|---|---|---|---|---|
フッサール | Sinn, Bedeutung | sense (meaning) | 意味 | 意義 | 意味 |
Gegenstand | reference / referent | 指示対象 | 指示対象 | 指示対象 | |
フレーゲ | Sinn | sence (meaning) | 意義 | 意義 | |
Bedeutung | reference / referent | 意味 | 意味 |
■モハンティ自身の弁 [p.69]:
フレーゲがつけていない区別を設けておこう。「指示(reference)」は、指示する機能 と 記号が指示する物 とを意味しうる。我々は、
- 前者を「指示連関(reference)」と呼び、
- 後者を「指示対象(referent)」と呼ぶことにする。
■メモ
- 心理主義(「論理学は心理学の一分野である」説)批判のお約束:
- 表象・概念・対象を区別しましょう。
- 意味の理念性・客観性を見失ってはいけません。
第1章 歴史的研究
- 語用のお約束[p.5]: 表象(Vorstellung)、対象(Gegenstand)、意義(Bedeutung)、意味(Sinn)
- 名辞の意味(or 意義)|名辞が指示する対象|対象の表象
- 表象は変化しうるが、意義もしくは意味は同一にとどまりうる。
- 名辞の指示する対象が存在しないことはありうるが、にもかかわらず名辞は意義をもつことができる。
- 名辞の指示する対象が複数個存在するような場合でも、対象の数多性は意義の数多性を含意しない。
第2章 心理主義の問題
- [p.32] 論理学的心理主義:
19世紀末のドイツの哲学者達の間で論議された心理主義の議論においては、論理学と認識論のみが問題となっていた
。カント的アプリオリに対する心理学的/生理学的解釈。 - [p.35] ブレンターノの語用: もしなにかが「物理的」でないとすれば、それは「心理的」とよばれるべきである(!)。理念的実在(!)は虚構である。
- [p.42]
心理主義は、なぜわれわれの論理法則がわれわれには必然とみえ、他の法則は考えられないかを、実在や規約によってではなく、われわれの心の構造によって説明する
。- メイランド 「論理法則は、心の働く仕方ではなく、心が働く仕方の結果を記述する。」
- [p.44] 心の機能主義的理論(ハーマン&フォーダー) ──の無関連性。
- [p.54] 記述心理学について: 1900-1901 / 1903 のフッサール
- 1900-1901年のフッサール:
第3章 意味の理論
(再訪)
第4章 論理学、および知識の理論
- [p.143] 「ゲームとしての数学」におけるゲームの意味:
「競技の間 チェスの駒は、象牙や木などでできた、かくかくの色と形をしたものとして考察されているのではない」。チェスの駒がまさに「チェスの駒」となるのは、ゲーム規則によって確定されたゲーム意味を獲得することに基づく。しかし算術記号はそれのゲーム意味に加え、根元的意味をも持つ。記号的思考においては、操作意味ないしゲーム意味において捉えられた記号が、それと同一の──ただしその十全な算術的意味における──記号の代理を務めるのである。(‥) このようなゲーム意味ないし操作意味という概念はフレーゲなら決して認めようとはしないだろう。
- [p.147] 「
「命題論理」は、文の論理とも思想の論理とも真理値の論理とも解釈されうる。フッサールは第二の選択肢を選び、フレーゲは第三の選択肢を選んだ(クワインは第一のものを選ぶ)。
」 - [p.165-166] フッサールの「判断」論3つのまとめ。(議論は p.161から)
- (一読しただけではほとんどフォローできない。あとでダメットの議論asin:4326101245。)
- [p.169-170] 知識について。フレーゲとフッサールの共通点は(ここでも)カント的な前提──「知識とは判断であり、判断とは 互いに異質でありながらまさに互いのためにある二つの要素の結合である」──から出発したこと。したがって二人の違いは、カントからの離脱の仕方の違いにある。
- [p.174] 「知覚的意味」登場ポイント
フッサールにおいて、カント的な概念と対象の区別は 意味志向と意味充実の区別という形をとる。知識は、概念と直観とが(フレーゲ的思想において概念と対象がそうであるように)その内で部分として共存する全体ではない。むしろ知識において、単なる記号的志向が充実される。つまりそれ以前には単に空虚な仕方でしか指示されていなかった対象が今や知覚され、そしてまさにそれが以前指示されていたとおりに与えられる。
単なる思想の真理の是認は知識ではない。その是認は正当化されなければならない。そのような正当化が、真として知られているほかの諸思想からその思想を演繹することからなるとすれば、その正当化は単なる論理的正当化にすぎない。だが、ある信念を正当化するなかで 人が論証──それ自体は真理ではない──に訴えるとすれば、そのとき人は、フレーゲが述べたように、認識論の領域に入り込んでいるのである。
対象の単なる直感的表象は知識ではない。だが単なる思考もまた知識ではない。
- 思考は知覚において確証されなければならず、
- 記号的意味志向(これを心に抱くことが思考である)は充実されなければならない。
(‥) 判断とは、思想からその真理値への前進なのである──それはまた志向からその充実への前進ともいえようか。
結論
最近のフレーゲ解釈は、ひとつの重要な誤りを訂正する成果を生んだ。すなわち、フレーゲ的≪意義≫は「言語的意義」──「言語的意義」によって当該表現の同義的表現ないしはその使用規則が理解された場合の──だという誤りである」。むしろ≪意義≫は、
- 認知内容ではあるが、しかしまた
- 無時間的・自立的存在者でもある。ところがまたさらに
- 言語記号の意義でもある。[p.177]
心的なものはしばしば、それ自体心理学的なものと無批判に仮定されてきた。だがより適切には、「心理学的」ということで理解されているのは、心的なものについてのある解釈なのである。それは、心的作用を、ある人物の心的生活の「内部で」生起し、その人物の身体的状態および環境的条件と因果的に結合された自然的出来事として理解する解釈である。[p.182]
──とかいうなら「心的作用」という呼びかた自体やめたらどうなのか。