きみ、「言うだけならタダ」って思ってない?
涜書:ブラットマン『意図と行為』
朝食&昼食。「と」本*続き。isbn:4782800894
1章〜4章再訪&5章。
第1章 序論、第2章 計画理論に向けて、第3章 計画と実践的推論、第4章 行為者の合理性──一般理論に向けて
- 第5章 再考慮と合理性
- 5.1 再考慮
- 5.2 再考慮する(あるいは再考慮しない)場合の、行為者の合理性
- 5.3 例への適用
第6章 行為者の合理性──来歴的理論、第7章 コミットメント再訪、第8章 意図の二つの顔、第9章 ある意図でもって行為すること、第10章 意図と予期された副次的結果、第11章 結論
涜書:ブラットマン『意図と行為』
夕食。「と」本*続き。isbn:4782800894
6章〜。構成が知りたかったのでともかく最後まで読んでみた。
依然として議論は ちんぷんかんぷん(死語)であるが、ともかくも今後の読解作業のために、前提作業として
- どんな問いが立てられているか
- 著者が「自分はどんな仕事をしたつもりでいるか」──何を敵とし、何を積極的に主張しようとしているのか──を表明している箇所
をピックアップしておく。
どのような問いが立てられているか
著作は大きく3部構成になっているように読める。
- 著者が「欲求-信念モデル」と呼ぶものを描写し その問題点を指摘したうえで、「計画理論」という代替案の最初のスケッチを提出する部分[1章〜3章]
これが最初のパート。ここで「意図」は、「限定合理的な行為者がおこなう計画」の部分へと位置づけられる。「意図〜計画」は、本人だけでなく他人も それを当てにして自らの行動を組み立てることができる とか、一定の時間経過において 事柄をそのつどいちいち顧慮しなくてよい、といったところにメリットがある(〜合理性がある)。 「熟慮」というのは──いうまでもないことだが、ふつう──「合理的ではない」のである。
しかし/すると、だから逆に次のことが問われることになる。
「あらかじめの意図」を再考慮するのが行為者について合理的なのはどんな場合か
これが本書の二番目のパートで問われる問いであり[4〜7章]、この考察を通じて「計画理論」の修正が図られる。
以上でもって、著者の「計画理論」はいちおうの全体像を結ぶ。
残るパートでは 「意図」をめぐる、著者が中心的には扱わなかった問題や 既存のビッグネームたちの議論(ex.グライス、ウィルソン、デイヴィッドソン、チザム、ハーマン)に対する評価がおこなわれる。これが第3部[8章〜10章]。たとえば8章では次の問いが扱われる。
「意図」(という心的状態)と「意図的行為」(という行為)との関係はどうなっているのか
また10章では──本書の議論の大半は 「意図」の“インプット”的側面を扱うものだったのに対して──“アウトプット”的側面に焦点が合わされる(ことで「計画理論」が拡張される)、など。
なお、内容をぜんぜん理解してないのに 要約できる俺すごいのは、単に「読解の形式的なお約束」に従っているから。
どのような作業がなされているか
以下、著者の自己了解開陳部分の引用。
のまえに。ひとつ気になった部分を先に引用。
実践的推論における予めの計画の役割と、道徳的推論において義務論的制約が果たす──とその弁護者たちが考えている──役割には、注目に値する相似性がある。
例えば、と
- 罪なき人を殺すことに対する義務論的制約によって、ある種の選択肢が道徳的に許容しがたいとして遮断されるとみなされる仕方
には、ある相似性がある。[‥]
- 予めの計画が選択肢に許容可能性というスクリーンを課す仕方
結局のところ、予めの計画は、選択肢に許容可能性というスクリーンを課すことによって、計画に対する違反をできるだけ少なくするようにとわれわれに命じているのではない。予めの計画と両立できない選択肢は、たとえその選択肢を遂行することが、整合的な計画を構成してそれを実行する私の能力を高めることになるとしても、通常は許容可能ではないだろう。そうした構造が、はっきりとした道徳的領域の外においてではあっても広範囲にわたっていることに気づけば、そのことによってたぶん、義務論的制約を脱神話化する方向に向かうことになるだろう。義務論的制約に関しては特別な問題があるのではないかという疑いの一部は、実践的推論の構造についての極度に単純化された見方に基づいている可能性がある。すなわち、未来指向的意図と部分的な計画の複雑な役割ととらえ損なった見方である。[p.320-321]
なんか大事なことをいっているような気がするけどよくわからない。(実践について間違った見方をしていると、道徳についてもヘンな主張をすることになる、といっていることまではわかる。──そりゃ当然そうだろう*。)
まぁ、それはさておき。
■まず基本。「行為」と「欲求と信念」との結びつきについての(よくある議論の)おさらい。
[例1]
- 『行為と出来事』というデイヴィッドソンの本を手にしたい。【→欲求】
- タナー図書館に行けばそうできる。【→信念】
- 両者は「タナー図書館に行く」ことに対する理由を私に与える。
[例2]
- ジャイアンツをテレビで見たい。【→欲求】
- 家に留まってのみそうできる。【→信念】
- 両者は「タナー図書館に行かない」という理由を与える。
私が「タナー図書館に意図的に行く」ことは、欲求-信念理由が適切な状態にあることによって行く事が支持される場合にのみ合理的である。[p.27]
だから私がここで理解しようとしている 欲求-信念モデル には、記述的な面と規範的な面とがあることになる。このモデルは、
- 一方で、意図と行為に関するわれわれの常識的理解のうちにひそむ心の概念の基本構造をとらえようとする。
- また他方で、実践的合理性という、記述と連関した規範的な概念を分節化しようとしてもいる。
なので、 欲求-信念モデル に対する批判は、「記述的」側面と「規範的」側面の双方について行われることになる。
で。
■以下 著者の自己了解開陳部分の引用。ざくざくと。
まず、本の最初のほう(2章)でのまとめ。
意図はふるまいを支配する賛成的態度である。われわれはそうした意図を再考慮するこおなしに保持する傾向を持ち、しかもこうした意図は、さらなる意図への推論のインプットという重要な役割を果たす。意図を通常の欲求と信念へと何とかして還元する試みをやめて、傾向性と機能的役割に関するこのネットワークを、このネットワーク自身の語りだす通りに考察することを私は提案する。[p.37]
2章の最後の部分でのまとめ。
われわれは意図についての三つの主要な事実を区別した。
- 意図はふるまいを支配する賛成的態度である
- 意図は慣性をもつ
- 意図はさらなる実践的推論へのインプットとして役立つ
これらの事実は、欲求-信念モデルの記述的な側面に挑戦するさいの拠り所であった。この挑戦を通してわれわれは、意図は普通の欲求および信念と並んだ独特の心の状態であると考えるようになった。次にわれわれは、欲求-信念理論の規範的な側面に注目した。そこで私は、さらなる実践的推論へのインプットとしての意図の役割が、実践的合理性の規範性についての考え方に変化を促す圧力になると論じた。実践的合理性についての欲求-信念による考え方は不変ではありえない、というのが私の結論であった。[p.50-51]
そうですか。
で、8章冒頭。7章までで一仕事を終えて、この本の最後のパートを書き始める(=別の話をはじめる)ところでのまとめ。
私は、意図を 計画plan に即してみる考え方について略述してきた。この考え方によれば、われわれは計画する生物なのだということがわれわれに関する中心的事実なのである。われわれはしばしば、未来に関する計画を前もって決定している。こうした計画が以後のふるまいを導き、その期間を通じて活動を調整する助けになる。しかも、その計画の助け方は、通常の欲求と信念がそうする仕方と同じではない。意図は一般的には、このような調整機能を果たす計画の要素である。そうしたものであるからこそ、意図はほかの状態とは区別される心の状態であり、欲求と信念の束に還元することはできない。[p.211]
そして最後。結論でのまとめ。
私の説明の長所のひとつは、互いに切り離されバラバラに扱われることになりがちな諸問題──心と行為の哲学、合理性についての理論、道徳哲学における諸問題──のあいだの関係の解明に有益なことであると思う。たぶんこの説明はまた、心と知性を理解するさいに、知覚と信念にもっぱら焦点を置いて、糸や行為が中心的な位置にあることを無視しがちな、心の哲学の傾向と対決する助けともなるだろう。[.218-319]
私は、論じ始めたところに戻って本書を終えることになる。つまり、われわれは意図という概念を、心と行為の両方を特徴付けるのに用いているという観察である。意図するという心的状態を理解するには、それを限界ある知的な行為者性についてのモデルのうちに位置づける必要がある。このモデルは、部分的な計画や計画するという減少を真剣に考える。行為を 意図的であるとか、ある意図でもってなされた とかと特徴付けるとき、われわれは、意図するという状態への関係を単純に考えすぎてはならない。われわれは行為の特徴づけを、とりわけ責任ということへの関心から、心を特徴づける仕方とは異なった仕方で行っている。意図の二つの顔に気づいたことによってわれわれは、知的な行為者性ということを考えるさいに、意図するという状態を独特で中心的な要素として扱う立場をとることになったのである。[p.321]
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ちょっと気になる。