ベック/ギデンズ/ラッシュ『再帰的近代化』

再訪。文のいみがよくわからんところ多数。あとで原著もあたっておこう。Questia にあるといいな...。

再帰的近代化

再帰的近代化

この人たち、面白いなぁ。


■ギデンズ

電子技術の比重がますます増大する文化においては、ノン・ヴァーバルないイメージは、日々の生活経験の組織化で日常茶飯事のこととなり始めている。しかし、この現象を解釈するには二つの方法がある。[まずひとつには、] ポスト構造主義理論のなかでさまざまなかたちで練り上げられていった、おなじみのソシュール流の解釈方法がある。[‥]
 とはいえ、まったく別の見解を示すこともでき、私はその見解を支持していきたい。

言語は、記号論的差異に由来するものではない。なぜなら、記号論的差異からは、得心のいく意味概念を生み出すことはできないからである。むしろ、

言語は、もっぱら言語使用の特性のひとつに指標性があるゆえに意味を担うのである。いかなる記号も──一見完全に絵記号のように思えるものであっても──叙述なしには存在できないのである。今の時代の美的省察は、その省察再帰性が、再帰性の想定する叙述形式そのものを破壊したり、その叙述形式に疑いをさしはさんでいくように典型的に編成されているという点で、逆説的である。[...][p.358]

■ラッシュ

[...] 私は確かにポスト構造主義の影響を受けているが、私は、こうした理論が記号表現の差異の自由な動きによる意味や叙述、心理の脱構築を想定していくような考え方には、ギデンズと同様反対である。ギデンズは、「指標性」というというかたちで意味を理解することをむしろ選考している。この意味では、エスノメソドロジーは、「指標的特殊因子」という概念を主題にしている。この概念は、共有された意味を、型にはまった活動や言語使用に関してすでに適用されている前提条件として、つまりどのような社会的関係性にとってもそれが存在するために必要なものとして想定している。この本で私が意味について述べてきた考え方は、ポスト構造主義よりも、むしろ指標性とより多く関係していると、私は考えている。
 問題は、抽象的システムの絶え間のない介入が、多くの場合、こうした意味を空洞化するために働き、関係性を無意味なものに、あるいは不可能にさえする傾向であるように、私は思う。[p.372]

争点になってるところで出てくる訳語くらい統一しておこうよ。>訳者


うわー。Questia にも Google にもなかったよー。
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ペーパーバック発見。
Reflexive Modernization: Politics, Tradition and Aesthetics in the Modern Social Order

Reflexive Modernization: Politics, Tradition and Aesthetics in the Modern Social Order



守護者と専門家

 (命令を下す)統治者や官公吏と(解釈を下す)守護者という二つの範疇は、ほとんどの場合同じ人物のなかに融合しているとはいえ、両者を区別することはおおむね可能である。マックス・ウェーバーは近代社会における専門知識のはたす役割について大いに関心を寄せてきたが、ウェーバーが伝統と専門知識の間に描いた対比は、主として命令システムの正当性と関係していた。[p.156]
 ... ウェーバーピューリタンの倫理のなかに暴き出した衝動強迫性は──[...]──「規律社会」とではなく、もっと別なものと結びついている。
 この点で、われわれわれは、専門家と官僚制組織の職員とを分けて考えていく必要がある。[..] 専門家と専門的職業従事者を同一視すべきではない。専門家とは、普通の人が所有していない特定の技能なり知識類型を自分のものであると首尾よく権利主張できる人である。「専門家」と「一般の人」は、状況次第の相対的用語として理解していく必要がある。専門知識には多くの層があり、また専門家と一般の人が互いに出会う 所与のいずれの状況においても重要となるのは──所与の行為領域のなかで──その人を相手との「関係」において「権威」にしていく技能や情報の面での不均衡である。[p.159]

ハッキング『何が社会的に構成されるのか』

何が社会的に構成されるのか

何が社会的に構成されるのか

ああもう。なんと捩くれた議論でしょう。id:contractio:20070821:p1 / id:contractio:20071115:p1

ねじ回しは、ハンマーとして役に立たないとしても問題とはならない。意味論は自然言語の正しい記述ではない。意味論は目的に応じて自然言語を人為的に解釈する仕方である。これらの哲学的理論は、種々の目的にうまく合致すると私は思っている。現在の場合、指示の理論を社会的構成とともに使うことはディレンマの感じを減らす方法を示してくれる。もしこの意味論的アプローチがディレンマの感じを減らすという点で役に立つなら、それは本当の意味で貢献をしている。というのも、そのことによってわれわれは、分類の意味論よりもむしろ重要な問題、すなわち分類のダイナミズムと私が呼ぶものへと関心を向けることができるようになるからである。[p.269]

言語はなぜ哲学の問題になるのか』は「意味論」の本だった。『表現と介入―ボルヘス的幻想と新ベーコン主義』は「意味論」からの脱出の本だった。これ↑は、その脱出先で何を研究するのか、という話。であるように見える。

それはそれとして、ここで「ダイナミズム」──とか「歴史的存在論」とか──という語で指示されているところのものを、もう一歩踏み込んで言葉にしなければいけません。(誰かが

ところで『世界制作の方法』がどっかいった。



バスケットにものを入れるということは、そうしたものをあるひとつの仕方で見せるということだ。たとえば、それらを収穫物として、あるいは自然の恵みとして、さらに神への感謝に値するものとして見せるのである。私はバスケットからいくつかを再び取り出して、それらを別の仕方で見せようと思う。この章では、「有意な種類の選択」という、感じのよい婉曲表現で言われていることが、どれほど豊かで矢用で複雑な数々の出来事から成る過程であるかを示すために、一つだけ例を見ることにしよう。
 われわれが如何にして日常生活において新しい種類を選び編成するのか を理解するには、詳細な事例が必要である。その場合、進化する伝統についての事例が必要となってくるが、千年かかった進化の事例ではなく、ここ2,30年の進化の事例が必要となる。[p.282]



相互作用類と無反応類

 いくつかの 相互作用する種類 と、たいていの 無反応な種類 との間には、さほど目新しくない相違点がある。つまり評価にかかわるかどうかだ。人間についてわれわれがおこなう日常的な区分の多くは評価にかかわっている。では、科学的な区分──たとえば医学や社会科学による区分──はどうだろうか。これらもまた評価に関わっている。社会科学に出てくる種類の多くは逸脱の種類であって、典型的には、人間がその種類に属するのが望ましくないがゆえに興味をそそるような種類である。そうした社会科学は困っている人間を助けるために情報を与えることをめざしており、分類は、誰かを困らせている人間や困っている人間に評価を下している。したがって社会科学は価値を背負った種類──すなわち、すべきこととすべきではないこと──を提示している。言い換えれば、そうあるべき 人間の種類 とそうあるべきではない 人間の種類 を提示しているのである。ある種類に分類された人は、その分類に含まれている価値を気にするということもあって、変化し、その種類に対して作用し返す。[←ループ] われわれはたいてい善いものとして見られたいし、また自分の罪を悪いものとして告白する。[...]
 われわれの個人的価値に関するわれわれ自身の評価──つまり、われわれが属している道徳的な人間の種類に関するわれわれ自身の評価──を、分類は変える。これは、人間は、人間について専門家が言うことを受動的に受け入れ、自分自身をその観点から見る、ということを意味することもある。しかし、フィードバックはいろいろな方向に働くだろう。たとえば分類されたものたちの反抗がよく知られている。上から与えられた分類には、それが当てはまると想定される人間によって手が加えられる。同性愛の自由化は、このタイプの相互作用の最も成功した事例である。相互作用する種類は「人間の制作」に関わる。これは単純な話ではない。ある種類をある程度深く研究することによってのみ、その種類が以下に作用するかが理解できる。そして、ある一つの種類に関する研究は、ほかの多くの種類に光を当てるかもしれない。しかし、どんなにうまく事例を選んだとしても、それは、せいぜいあるグループの種類を理解するための手引きとして役立つに過ぎないであろう。すべての種類のモデルであることを目指すべきではない。モットーは「種々多様」である。[p.284-285]
 ... 私が反自動虐待運動や社会科学一般に関して何が間違いであるかを閉めるという改良をさらに行っていると見えるかもしれない。しかしそれは私の本意ではない。私の関心はむしろ、「児童虐待」「虐待者」「虐待された子供」といった言葉が種類を指す仕方と、そうした種類がわれわれに何をもたらすのかということにある。[p.287]