(1) 「所有権の起源とその正統性──歴史的概観」

 現代社会は、自らを的確に捉えた理論を未だ見出していない。我々は、まず最初にこの点を認めなければならない。たしかに、資本主義社会とか工業社会、あるいは脱工業社会、科学-技術文明、ポストモダンなど、〔現代社会についての〕記述はあれやこれやとなされてはいるが、このことは結局、我々の多くの制度を理解するためには歴史的な解釈が必要であるということを示している。しかし、その歴史的解釈の正しさを検証するためには一つの的確な理論が必要であるが、それが未だ存在していないために、そうした歴史的解釈の正しさを確かめることができないのである。
 このような状況の下では、他のどのような社会学的研究よりも、現代社会についての一つの理論を構築するという仕事が優先されてしかるべきであろう。しかし多くの制度に関する理解は歴史的コンテクストによって規定されてきたし、今もなお規定されている。それゆえ、その歴史的コンテクストを明らかにすることも、より限定されたものであるとはいえ、有益な仕事なのである。所有権の問題、特に私的所有権の問題は、こうした関連において特に重要である。というのも、19世紀にはこの問題をめぐってイデオロギーの対立が生じ、20世紀の終わりになってもこの問題がしばしば呪文のごとく引き合いに出されているからである。所有権の扱いを異にする体制は、世界的規模の対立と緊張、不信を生み、人々がしばしば恐れているように戦争の危機を齎している。したがって、戦争が無意味であるということだけでなく、戦争の理由となるもの[、つまり所有権思想]が無意味であることを明らかにすることができれば、それは決して意義のないことではない。[pp. 225-226]

 近代的な諸関係を認識するための第一の手がかりを示されたのは17世紀であり、近代ヨーロッパが歴史的にも宗教的にも他のどんな社会とも異なっているという観念は18世紀後半に完成した。これが私の出発点となる仮設である。この理念をしあげた意味論と それに基づく慣用的表現は、立件国家からロマンティックな愛にいたるまで、また教養のための教育から法の実定性、ニュートン物理学から自由市場経済にいたるまで、あらゆるところに浸透している。しかし、この意味論は暫定的な意味を持ちうるに過ぎない。この意味論は、近代社会を、開かれていて無規定な、だがまずは積極的な展望の開けた未来への移行段階として描いている。そこでは、人間は、自分自身の未来を形成しようと努力しているのだから、それを正しく行いさえすれば事態は良くなるだけだ、と考えられ[てい]る。…
 私はそれを近代中期の意味論と言いたいのであるが、今やこの暫定的な意味論を後退させるべき時代になった。しかしその前に、われわれはまずこの意味論をもっとよく知らねばならない。

  • ジョン・ロック『政府二論』(1690)における所有権論の有効性が完全に認められるようになったのは19世紀初めの社会主義理論においてである。

これ、何を念頭に言ってるんでしょうか。

市民理論は初めから二つに分かれて登場してきたのである。すなわち、クリスチャン・ヴォルフとルソー、ボティエとランゲ、リカードマルクスであり。しかし今日、市民理論のこうした考え方で充分であるかどうかが問われなければならないし、それによってこの講演の初めの問題に戻ることになる。すなわち、こうした市民理論の枠内で それらを積極的に評価するか、消極的に評価するかを決断しなければならないのか。またそうすることができるのか。それとも全体的な問題設定を新たに考え直さなければならないのか、という問題である。

「第一の変化」はどれ?

 第二の変化が現れたのは所有権概念に関する法学的な議論の外側においてであるが、それはその後法学的議論に反作用を及ぼしている。従来、所有権は政治社会で行われる一つの制度であり、それは家政に基づいていた。17世紀以後、これに代わって政治的経済という(古代にはほとんど用いられなかった)概念が登場する。と同時に、17世紀には、古い意味での経済学たる家政論を超えるような意味での経済理論、すなわち国家的ならびに国際的な依存関係を研究する経済理論が展開されるようになる。18世紀後半以後、この新しい経済理論が社会理論の機能を引き受けるようになると、人間の社会はあたかも、それだけが唯一のものではないにしても、まず第一に経済的な事業であるかのように見なされる。こうした理解によれば、社会とは人間の欲求の解放を規制し、その目的のために分業と所有を調整するものである。それによって所有権概念をめぐる法的議論は、思いがけず、所有権者の社会を正当化するという課題から解放されることになる。ここに登場したのがアダム・スミスの商業社会の理論であって、この社会は分業によって自然状態から区別される。

・いまや所有権制度のほうが分業体制の要求に適合しなければならなくなりました。

 このようにして、自然法は規範的な社会理論を提供するという任務を解除され、それに基づいて所有権は実定法上の制度として概念的に捉えられるようになる。所有権者の処分権を解放し、あるいはそれを制限することは法技術的な道具となり、それによって法は社会的要求に答えるのである。そしてこの「社会的要求」とは、今や経済的要求に他ならない。

 ここまでのところ、所有権概念は社会理論の中心概念であった。たとえそれが、

  1. ある場合には土地所有との関係で政治的に捉えられ、[封建制
  2. その後には 処分権限の排他性との関連で自然法的ないし法律的に捉えられ、[中世ローマ法]
  3. 最後には経済成長を最大化するという観点から経済的に捉えられているとしても。

だが、現代社会のもろもろの現実に照らしてみると、これらの理論は充分説得的なものにはならなくなった。

  • 所有概念を中心に据えた社会理論の代替物としての機能分化論

… 所有権といった社会制度を文脈なしに全体社会に関係づけることはできないのであって、さしあたりどのような部分システムに属するかを調べてみなければならない。…
 その点でまず経済に目を向けるべきだということについては疑問の余地がない。所有権はもちろん今なお法的な概念でもあり、所有権の移転は経済的取引であると同時に法律行為でもある。しかし、

  • 法にとって所有権はほかの多くの規制領域のうちの一つであるが、
  • 経済にとって所有は中心的なコードなのである。

… つまり、およそ所有というものが存在しなければ、経済は社会の機能システムとはなりえないのである。… 言い換えれば、所有(権)は、

  • 法システムにおいては紛争においてだれが法〔的権利〕を有し、誰が不法であるかを決定し得る特定プログラムの構成要素であるのに対して、
  • 経済システムにおいては、そもそも当の経済システム自身を分化させる二元コードの構成要素なのである。