福井報告への質問(その1)

というわけで──上記の牽制も若干意識しつつ──、ルーマンフォーラムにポストしたうちの一つを若干アレンジしてこちらにもアップしてみる次第。



福井さんのレジュメ&報告への質問

「『秩序』としての紛争」 http://www.cdams.kobe-u.ac.jp/archive/20040126.htm
0.課題設定
1.「秩序」成立の難しさについて
2.ダブル・コンティンジェンシーと「秩序」
3.「秩序」としての紛争?合理性と非合理性の複合体?
4.プロセスとしての紛争解決


で、質問を開始する前に、ディスカッションを見通しよくするために背景的前提として、私の得た──論証ではなく──「印象」を書いておきます。


まず、レジュメを一読して私が興味を引かれたのは、2つ:
  【1】4の内容(と今後の展開)
および、
  【2】「0〜3」と4の つながりかた
でした。
【1】は“「内容」が面白いので「もっと詳しく話が聞きたいです&今後の研究に期待します」”ということ。そして【2】のほうは──:


一読して私は、この報告の
  ・0〜3と4の「つながりかた」がよくわからない
というか、
  ・0〜3は、4に効いてない
と思いました。そんなわけで、私の目には、「0〜3」は不要で、いきなり4の話をしてくれれば(そしてその話をもっとしてくれれば)いいのになぁ、というふうに映ったわけなのでした。で、ともかく私はそう「思った」わけですが、しかしまた やはりともかくも福井さんの側では、
  0〜3は必要
だと思ったから、このようなストーリー展開にしたのでしょう。そうなると、次のことが──そして、これが「興味を引かれたことの【2】になるわけですが──、疑問として浮かんでくるわけなのでした。
そして/したがって、報告に関する私の「疑問」は、以下この点に集中します。

  • 【3】福井さんはどうして「0〜3」が必要だと考えたのだろうか?
  • 【4】福井さんは「0〜3」によって「なにをしたことになる」と考えているのか?

レジュメ自体はもう何度も読みましたし、この点が確認したくて報告も聞きましたが、いまのところこの「印象」は変わっていません。
むしろ、法哲学研究会で、質問&討議が、もっぱら「0〜3」に集中していたのをみて、「さもありなん」と思ったわけです。
ただ、神戸ではそうでもなかった、ということですので、この↑点をあまり「過大」に「評価」しすぎてもいけないかもしれませんが。
少なくとも、ディスカッションが「あのように」推移したことは、「法哲学研究会」のあの日の 参加メンバーのキャラクター に強く規定されていた、というふうには、私には思われず、むしろ福井報告の内容は、まさにディスカッションがあのように推移することを「誘っていた*」ように見えたのでした。
* と、ここで実際に会場ででた質問いくつかを取り上げて、簡単に論じてみたかったんだけどね(w。 まぁ、それはやめときますか。

‥‥以上が私が「思ったこと」&「興味を引かれたこと」です。で、ここ↓からが質問。


さて。上記のような「関心」のもとで、福井レジュメ&報告について、まず、一番基本的な、そして簡単な質問をしてみたいと思います。


【Q1】
福井さんは、このレジュメ&報告で、「秩序問題」を介して「紛争」というトピックに取り組むにあたり、
 1)紛争の「記述(的解明*)」をしたかったのか
 2)紛争の「分析**」をしたかったのか
 3)紛争の「モデル***」をつくりたかったのか
 4)紛争の「解決策」を探りたかったのか
 5)その他のことをしたかったのか
──どれでしょうか。
ここはそれぞれ、簡単に、次のようなことを考えています。
* 個別具体的な紛争事例を取り上げて、個別具体的に記述をおこなうこと。
** 複数の記述を比較参照して知見を導くこと。
1)2)をあわせて、「記述」と読んでもよいかと思います。
ので、1)のほうには「解明」をつけてみました。
*** なるべく少数の要素によって「紛争」の本質的特徴をモデル化すること。
というのが質問。
報告の内容からみて、「4)はありそうにない」ように思われますが、実は──福井さんの意に反して(?)──そうは「済まない」かもしれません。
ともかくも、選択肢として入れときました。


福井報告を一読して、私はこんなことを書いたわけですが:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040129#p1

福井康太さんの曰く:

しばしば看過されがちだけれども、紛争もまた一つの 「やり取り」であり
〔略〕
私は、それをあえてポレミカルに「秩序」という言葉で表現し、「望ましい整序原理=秩序」「望ましくない整序原理=反秩序」というような区別は、価値中立をものとする社会科学の観点からはとることができないという立場をとることにしました
紛争というやり取りの秩序を、
「紛争という秩序」という言葉遣いって、法(社会)学業界方面では「ポレミカル」なんですか??
だとしたらちょっとびっくり*1
<望ましい/望ましくない> というやり方で区別立てするのがまずいのは、
それが価値中立的でないから-とかという理由によるわけではぜんぜんなくて/ということよりも前に-
単に、この区別では、その やりとり-の/という-秩序 を適切に記述できないから、じゃないでしょうか。

このとき、私は、一方で、
  紛争もまた一つの「やり取り」である
と述べる福井さんが、他方で、
  それをあえてポレミカルに「秩序」という言葉で表現する
と語ってしまうのをみて、非常に不可解に思えた訳です。というのは。


「秩序問題」を云々するやりかたには、一方に、
 【S1】「秩序」概念を、「よい状態」「望ましい状態」だと規定した上で、
     1)それをどうやって設計するか
     2)「よい」とか「望ましい」とかを、どのように規定するか
    といったことについて取り組むもの
があり、これは、現代の社会科学において重要な潮流になっていると思うわけですが、他方には、
 【S2】「やりとりの秩序」を適切に記述すること に取り組むもの
というのもあります。


そして──私が思うには──、【S1】と【S2】は、「別のゲーム」をやっているわけです。それは言葉の使い方をみればすぐにわかります。


【S2】においては、「秩序」というのは、「やりとり」と等価な概念であり、この用語法にしたがう場合、
   紛争は秩序である
のは、「定義によって」明らかです。

そして、「秩序」が「何であるのか」について、それいじょう「概念的」に明らかにする必要は(たぶんあまり)なく、むしろそれは、具体的な「やりとり」の記述の適切性によってこそ担保されるものになっているわけです。
そして──そういう事情なので──そもそも、こちらの場合、「秩序」という言葉自体を「使わないですませる」ことすらできます。


他方、【S1】においては、「秩序」は「よい状態」のことを含意しているわけでこの用語法にしたがう場合、
   紛争は秩序とはいえない
のは、やはり「定義によって」明らかです。
しかし、こちらのほうは、設計・構築的に発想している以上、「概念規定をよりクリアにする」という課題は避けがたいものですしまた、それをクリアにしようとする努力から出てくるものが、「学問的な成果」になってもくるわけです。
そして──ひょっとしたら福井さんの意に反して、かもしれないとも思うのですが──、「モデルビルディング」は、こちらの課題にも(あるいは、こちらの課題にこそ)「役に立つ」でしょう。



上記の見解が正しければ。
福井さんは、出発点で

  • 紛争は秩序である

という「言葉の使い方」のほうを選択した以上、

  • ゲーム【S2】を選択しているはずだ

と、私には思われるわけです。そしてまたそうである以上、

  • それ【S2】と、異なるゲーム【S1】との間でポレミカルな事態が生じるわけがない、

と、私には思えてしまうわけですが、にもかかわらずここでさらに福井さんが、自分の課題設定を「ポレミカル」だと自認しているからには、
  1)上記の酒井の見解が間違っている
か、
  2)福井さんが自分の用語法と課題を「誤認」している
か、
のいずれか──あるいは両方──のように思われるわけです。

言い換えると。
もし(2)であるとすれば、それは、

  • 【S1】と【S2】が
    「秩序」という お-な-じ 言葉を使っているというだけで
    「お-な-じ」課題に取り組んでいる*、
    と誤認してしまった

ということであると思のですが、どうでしょうか。

* 【おなじ課題に取り組んでいる】のでなければ、そもそも「論争」を構成しようがないわけなので。


さらに──上記の酒井の見解が正しければ──、福井さんが、この「論争的課題」を、

「望ましい整序原理=秩序」「望ましくない整序原理=反秩序」というような区別は、価値中立をものとする社会科学の観点からはとることができない

という仕方で特徴づけるときには、もうひとつふたつ過剰な──そしてたぶんヤバイ──ことを言ってしまっているように思われます。
つまり、私の上記の理解が正しければ、【S1】と【S2】は、
   言葉の使いかた
(のみ)によって、適切に区別ができるわけで、それ以上に、
   価値中立をものとする社会科学の観点
を持ち込むんで云々するのは、──つまり、「価値中立性」を云々などするのは、「過剰な=余計なこと」であるはずだ、ということ。これが一点目。

そして/さらに──「ヤバイ」というのは、次のことですが──、福井さんが述べたことが、もしも

  • 「秩序」について、「望ましさ」「よさ」を云々するなどということは社会科学のやるべきことではない

ということなのだとすると、その場合には、ロールズもセンも(中略)もみなごっそりと「社会科学の資格」を失う、という話になってしまうわけで、これはかなり──というかすごく、いや非常に──「大胆な主張」をしているように思われもするわけなのでした。(これが二つ目。)


そしてまた。
【S1】と【S2】に「関係がない」とは、ひょっとしたらいえないのかもしれませんが、その「関係」を問うのは、相当に難しい課題であるはずです。それを考えると、
「言わなくていいこといっちゃってるせいで、すごく難しい【問題】を抱えちゃった(ことになる)んじゃないかなー。だいじょぶかおーい」と、──ひとごとではありながら──
少し心配になってしまう酒井ではあったのでした。はい。



──と。
 こんなあたりで、「初発の疑問」とその敷衍、とさせていただきたいと思います。

*1:このテーゼって──ルーマンを引き合いに出すようなもの、というよりは/それ以前に──、偉大なるアメリ社会学の父・我らが親愛なるタルコット・パソーンズ師だって認める類のもののように思えますが。