観念しろよ

http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040414#c
id:Brittyさん曰く:

# Britty 『我々の経験的意識は主体・客体対立に汚染されきっているのでSub.-Objekt対立という魔法の言葉が世界を説明されるのに使われるのはある意味我々の経験的思惟における癒える事のない病だと私は考えるが、あなたどう思うか。』
# contractio 『いつ(どんなとき)要求するんですか? いつでも「要求」するわけじゃないでしょう? <経験的主観が主体性を要求』
# Britty 『個我として自己措定された主観は定義から主体的だとおもうが、あなたとは「他」なので定義より主体的なものではありえないと思われますが、あなたどう思うか。』
# Britty 『話を戻すと、主観に実体性を付与しなければ主体性はもとめなくてすむのではないか。というわけで個我の実体性を破棄できれば主体性の概念も破棄できると思うのよし。
# Britty 『個我として措定されるのは、実は措定対象としての個我であってこれは客観なので主観の自己措定は反省においては客観に先立たないが本性的に先立つため自我は自己措定なのだとおもうのです。文法の問題には回収できないとおもわれ。』

で? いつどんなとき「主体性」が要求されるんです? ──いつでも じゃないでしょう?

コメント欄が長過ぎで泣きたくなるんだが?


【追記】

Britty 『だから「自己意識が定立されるとき」ていうてませんでしたっけ?自明だとおもって省いたかな?自我性が問題になるのは個我の規定根拠としての主観なので、当然「どこでも」ではありえませんね。永遠における自我性なんてのは虚妄だから。主体性をおくところでのみ主体性は問題となりうる、とこれはすでに書いたような気もする。』

トートロジーじゃねぇの? ──まいいけど。

つか「主体性をおく」のは誰よ?


追記2

#Britty 『いつ:主観が主体としておかれるとき なにが:問題設定そのもの どこ:いつにおなじ。レジュメでした。』

レジュメどうも。
こういう問題設定を ドイツ観念論者が) 置くことによって ドイツ観念論者が) 主体性概念を使わざるを得なくなるのだ、ということまではわかりました。



追記3

# Britty 『「だれ」というのは主観を人称化=擬人化するのでよくないとおもいます。自己意識が端的に人格的なものかどうかは疑問です。ではばいばいきーん。』

主観を人称化してるんじゃなくて、その問いを問うのは誰か*1と問うているわけでした。

答えは「Britty氏が」ということになるようにしか思えませんが。
「自己意識が端的に人格的なものかどうかは疑問」、という点についてはまったく同意します。

*1:「どれか」でもいいんだが