お買いもの: 長谷川書評(リドレー『やわらかな遺伝子』)

もう一発、editechさん経由で。(http://d.hatena.ne.jp/editech/20040714#p6

の、長谷川眞理子さんによるブックレビュー。

 一方で、「環境決定論者」たちは変わったのだろうか? それは、おもに人文・社会系の学問で人間を研究している人たちのことだが、さて、どうだろう? また、これは私の経験だが、若い人たちの多くは、「遺伝じゃない、環境だ」と思っている。環境決定論には、なにか魅力があるらしい。先にも述べたように、社会や文化が変われば変わることができるという希望を与えてくれるらしい。しかし、私は、個人のあり方が環境で決まるなんて、遺伝で決まるというのと同じくらい、いや、それ以上に不愉快だ。「私」というものが完全に外部から受動的に動かされるもので、「私」の内部から出てきたものがないなんて不愉快だ。いずれにせよ、環境がすべてでも遺伝がすべてでもないのだから、よかった。

「遺伝子」は、「私」とか「個人」とかにとって「外部」にあるんじゃないですか? (どうして「内部」だなんていえるんでしょう???)

個人のあり方は環境で決まるという文が、「私」というものが完全に外部から受動的に動かされるということを意味するのだとして。
しかしそうだとしたら、個人のあり方は遺伝子で決まるという文の意味も、同様に「私」というものが完全に外部から受動的に動かされるということを意味する、と解さないとおかしいではないですか。
なので、「それ以上に不愉快だ。」という主張は理解しがたい。です。
私には、「遺伝子決定論」は 「環境決定論」のひとつのヴァリエーションである と考えるのが筋が通っているように思えますが。(したがって、「遺伝か環境か」という「論争」は、「環境決定論」というコップ*1のなかの争い なのではないか、と。)
もちろん、「遺伝か環境か」という問いを、歴史的な問いとして扱い、それにまつわる論争を再構成し・提示してくれることには充分におおきな意義のあることだとは思います。はい。

*1:ものすごく大きな