涜書:山田富秋『日常性批判』

昨日部屋掃除を敢行。段ボールの最下層部から発見される。
昼飯をカキコミながら1〜5章までをざっくりと再読。

日常性批判―シュッツ・ガーフィンケル・フーコー

日常性批判―シュッツ・ガーフィンケル・フーコー

  • 第1章 コミュニケーションの不可能性と権力現象
  • 第2章 シュッツの科学批判とエスノメソドロジー
  • 第3章 「個性原理」と対話的コミュニケーション
  • 第4章 批判実践としてのエスノメソドロジー
  • 第5章 差別現象のエスノメソドロジー
  • 第6章 司法場面における「権力作用」
  • 第7章 「妄想」の語られ方:精神医療の言説編成

賛成できない箇所は多々あれど、これはこれで首尾一貫した議論なのだなぁ、ということを再確認。
「批判」しようとするだけならある意味簡単で、「身体」だの「権力」だのといった言葉が──2000年に出版された本とは思えぬ程に かなり強力にネトネトベタベタな──マジックワードとして使われている*ことを指摘してやればよい。

* それが明白に見て取れる箇所の例:


のだが、べつにそんなことをしても面白くもなんともないわけで。

私が、考えねばならんなぁ、と思ったのは、その「身体」だの「権力」だのといった ベタなマジックワードを取り去ってやったときに、この議論がどう変わるのか、ということ。

それは直感的には、目指されるべき 社会学的な記述の身分 とはどのようなものなのか、を問うことに等しいだろう、と予想されるのだが。以下の議論 参照。


たとえば。
第3章で、「haecceity」の二つの解釈を対照させながら議論しているあたりなどは──リンチを「分析的議論」の側に位置づけるこの解釈に賛成してよいのかどうか、現時点で私には判断ができないけれど──、個人的にはすこぶる面白く読めた。この「haecceityの二つの解釈」は、この語がもともと位置していた(ガーフィンケル自身は──そして山田さんも──おそらくまったく意識していないだろう )場所、つまりスコラにおける「haecceitas」を巡る議論(と、この語がたどったその後の顛末)を彷彿とさせる。


[1] 一方で。
この語はもともと、「【この私】は救済されうるか?」という問いと結びついて、その問いに答えを与えようとする努力のなかで登場した。(私の理解している限りで)簡単にまとめてみると:問われた問いは、

  • 「もしも神の認識が【普遍】的なものであったなら、【この私】は──あきらかに「普遍的」ではないのだから──神に把捉されないはずである。それならば【この私】は救済され得ないのではないか?」。

であり、これに対してスコトゥスの与えた答えが

  • 「神は【この私】を認識しうる。なぜなら【この私】は ──【ナニ性quidditas】のみならず(ex. 単に「人間である」といった属性を持つだけではなく)、さらに── 【コレ性haecceitas】をも持っているのだから。」

云々、というものだった(、ということのようである*)。
[2] 他方で。
「その後の顛末」と書いたのは──と書きつけながら朧げに想起しているのは八木雄二氏・山内志朗氏ほかの議論なのだが──、このようにして登場した【コレ性haecceitas】が、しかし/むしろ 近代の途上で「普遍数学」的指向を準備することになった、ということのほう。


 これがそれぞれ──しかも、そこで生じた「ねじれ」まで含めて──、エスノメソドロジー研究の文脈における、

と、ここで山田氏が行っているような、

  • [2] 「【此性haecceitas】の記述」を標榜するエスノメソドロジーが、その実 【一般理論】を謳う論者と変わらないことをやってしまっている

という批判に、それぞれ相応する‥‥ ように思えるところが興味深い、というわけなのだった。


まったく残念なことに、山田氏自身は、ここで(「身体」だの「権力」だのといった)マジックワードでもって問いを 解消=消去 してまったわけだが、そうではなく、せっかく獲得されたその問いを丁寧に扱い、その【haecceitas(の記述)】なるものの身分を もっと突っ込んで考えてみる必要があるように、私には思われる。

逆にいうと。山田さんはこの問いを、一方では「(自らの権力性-に無自覚-な)ふつーのエスノな人」を批判するのに用いるわけですが、それができるのは、他方で自分自身に対しては、マジックワードでもって問いを消去=解消してしまっているからであるように見えます。
そのことの当否はさておいたとして。しかし/そもそも この問いは、そんなツマラヌことに使わなくてもよい、もっと面白いものでありうるんじゃないのかなぁ、と私自身には思われるのでした。


ともかくも、その「問い」(の入り口)にまでは連れて行ってくれるという点では、この本はよい本であるように思われるので、もう少し丁寧に再読しながら、そこのところを考えてみたい(ものだなぁいつかは)、とつらつら思う夏の昼下がりなのであった。

ところでこれまで読んで来たところには、「保守的」という言葉は登場してこない。んがくく。


* haecceitas といえば──まずは『中世思想原典集成 (18):後期スコラ学』isbn:4582734286 所収の『命題集註解第二巻』が参照されるべきだが──、こないだ刊行されたこの本もすごくよい。(id:contractio:20040610)

スコトゥス「個体化の理論」への批判―『センテンチア註解』L.1,D.2,Q.6より

スコトゥス「個体化の理論」への批判―『センテンチア註解』L.1,D.2,Q.6より

  • まず、オッカムが『オルディナティオ』の議論を明確に整理し、しかも手短にまとめてくれている。批判と対照するとスコトゥスの議論についての理解も深まる。これがよい。
  • さらに訳注・解説が丁寧かつ親切。これがよい。
  • 訳文も日本語として読みやすい。よい。
  • しかもありえぬほどの圧倒的な 薄さ。これもよい。(読む前に気力が削がれる、ということがとりあえずない。)
すばらしい。お買い得。
対訳版なので、ラテン語勉強しようとしている人のためにもよい。
私はしませんが。