マイケル・リンチの親殺しシュッツ批判

  • 張江洋直、「シュッツ科学論の二重性へ:科学的活動論としての「見識ある市民」」『年報社会科学基礎論』3号、2004/05

をきっかけに、「リンチによるシュッツ批判→シュッちゃんからの反批判」周辺の議論をフォローすべく文献リストをつくってみる。引用は、上掲張江論文より。
当論点に関する張江論文の主張は、シュッツには「科学的活動scientific activity」と 「科学的態度scientific attitude」についての議論があるのに、リンチ(をはじめとするシュッツ批判者たち)の批判は、後者(のみ)を前景化させることでなりたっている、というもの。

シュッツ科学論への批判は総じて、シュッツによる「科学的態度」論を前景化することによって成立している。その典型はM.リンチによるシュッツ科学論への批判[Lynch, 1988]であるが、それへの反批判もすでに周到かつ十全に為されている[矢田部,1998; 浜,1999]。

よって、ここでは、わが国の中心的なエスノメソドロジストのひとりである山田富秋による実践論的なシュッツ解読を吟味し、そこからシュッツ科学論の可能性の中心をどこにみるべきかを明示したい。ちなみに、かれはガーフィンケル=リンチによるエスノメソドロジー理解に異を唱え、「エスノメソドロジーにとってシュッツから継承したもっとも重要な概念は、「身体を媒介にした実践的で対話的なコミュニケーション」である」[山田,2000: 65]と、その実践論的な理論志向を一貫して示している。

ていうか、うーん。
べつに「エスノメソドロジストとして」は中心的じゃぁない*1ですよねぇ。(ほかの意味で「中心的」ということなら おおいにありうるでしょうが。)


あれ? 意外なことに(?) ほとんど読んでおるな。みんな忘れてるけどw。
ほかにフォローすべき文献として、どんなのが挙げられますかねぇ。>識者さん

*1:「中心的である/ない」ことが「よい」か「わるい」かは別として。ご本人だってそうは──「私こそエスノの中心人物である」とは──考えておられないんじゃないでしょうかねぇ。なので──こう書くことには あげあしとり以上の意味があると思うので書くわけですが──、とりあえず「文献操作上の問題」としてどうよ? という気はします。