通勤の友。
- 戸田山和久, 2002,「科学(者)のなかの哲学(者)」『哲学の探求』29, 15-30.
http://www.wakate-forum.org/data/tankyu2.content/content29.php
科学者も探求の或る局面で、複数のリサーチ・プログラムの優劣を論じたり、ある結果を発見といってよいかどうかを考えたり、これまで使ってきた概念を整理したり、複数の理論の相互関係を考えたりといった、「哲学的・認識論的」な考察や論争を行うことがある。重要なことは、こうした「哲学的」「思弁的」な作業と、実験、観察、シミュレーションの計画を立てる作業、プログラムを組む作業、データを集める作業...は連続しているということだ。それは哲学者の専売特許ではない。認識論はメタ科学ではなく、科学内部の活動と考えるべきだ。
http://d.hatena.ne.jp/Minik/20110207/1297057840
私はこの点をエスノメソドロジーから学んだ。エスノメソドロジーの探求の方法は、「知っている」「発見」「説明」「確実だ」というような認識論的語彙が科学者の日常的研究活動にどのように組み込まれ、働き、科学者に共通の「科学的事実」を構成することになるのかを微細に記述することにある。「世界と表象」、「データと理論」、「対象と知覚」というような古典的認識論の二局構造は、科学者の探求のその場で、たとえば「これって発見なんだろうか」、「もっと正確に言ってみてくれ」というような会話を通じて展開されている、いわば「生きられた認識論」を隠蔽(ガーフィンケルの用語で言えばmasking)してしまう。エスノメソドロジーじたいは、「リアリティ」はこうした実践を通じてその場その場で構成されるものだという強烈な観念論的傾向をもっているので、私はとても賛同はできないの〔だ〕けれども、認識論は科学に埋め込まれている科学内部の活動だという論点に関してはまったく賛成だ。(戸田山和久, 2002,「科学(者)のなかの哲学(者)」『哲学の探求』29, 15-30.)
最後の文は、エスノメソドロジストなら目を白黒させるしか無いものだろうが、ともかくも、戸田山さんがどんな仕方で「観念論」という言葉を使うのかについては、『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)』の p.150 で窺える。
知識テーゼに | ||||
---|---|---|---|---|
Yes | No | |||
独立性テーゼに | Yes | 広義の実在論 | ||
科学実在論 | 反実在論: 操作主義、道具主義、構成的経験主義 | |||
No | 観念論: 社会構成主義(観念論の現代版) | - |
- 独立性テーゼ: 世界の存在と秩序は、人間の認識活動とは独立である。
- 知 識テーゼ: 世界の存在と秩序について、人間は、科学によって知ることができる。
のこと。
これを見ると、「EMって観念論だろ?」という問いかけには──ついつい「No」で答えたくはなるが──、簡単に Yes / No で応えてしまっては まずそうだ。
とまれ、残念ながら、ここには根拠が(=戸田山さんが エスノメソドロジー研究のどこをどのように見て このような判断を下したのかが)書いてないので、これ以上は なにも言うことができない。
それはそれとして。後段のようなケチはつけつつも、前段のような仕方で引き合いに出していただけることを──残念ながら ほんとうに珍しいことだから──ともかくも喜ぶべきではあろうか。