戸田山『科学哲学の冒険』

上掲論考を読むに、『冒険』の「科学哲学の目標」のあたりが、上記引用箇所に関連しているように思われる。

科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

第一目標:科学の「理解」を目指すこと

  • リカ──じゃ、科学哲学は何をやるんですか?
  • センセイ──ん? すごく分かりやすく言うと、科学という現象をね、理解したいの。地球物理学者が自身とかオーロラという現象を理解したいと思うよね。[…] それと同じように、この世で行われている「科学」と呼ばれる営みは ものすごく興味深い現象だから、それをまるごと理解しようとしているんだよね、科学哲学は。
    […]
  • リカ──[…] どうしてそれが「哲学」じゃなきゃいけないの? 科学者自身がやった方がいいじゃないですか。
  • センセイ──ありていに言うとね、ボクもそう思ってんの。科学者たちが本気で科学自身を対象にして科学をやりはじめたらおもしろいぞ、って。[…] それにね、多少ともまっとうな科学者は、必ずと言ってよいほど、研究しながら科学とは何かを論じたり考えたりしてきた。[…]
    […]
  • センセイ──それどころか、そもそも日頃の研究の中で科学者は、そもそも「この方法はどれくらい信用できるんだろう」とか[…]自問したり、「おまえのやっていることは科学じゃない」と言ったり、それに反論したりということをしょっちゅうやっている。つまりね、「科学って何なの」という問いは哲学者の専売特許ではないってこと。ついでに、この問に答えるのにとりあえず必要な方法は、「よく考える」ということと「歴史から学ぶ」ということぐらいでね、哲学者だけがアクセスできる特殊なやり方というのがあるわけでもない
  • テツオ──だったらなおさら科学哲学っていらないような気がするなぁ。 [pp. 26-28]

とりあえず少し気になるのは、科学者による科学についての「反省」が、やや特別視されすぎているように見えるところか。「科学」と対照されているのが「(科学)哲学」だからこそ、そうした特別視(?)が生じている という可能性を考えてしまうのは穿ち過ぎだろうか。

ここは、エスノメソドロジストならば──定式化実践を それとして特別扱いすることはせずに、むしろ──そうした定式化が、他の諸実践との関係において(〜どのような脈絡において)・どのような指し手として登場しているのかを気にするところだろう。

もっとも。
社会成員──いまの場合は自然科学者──による定式化実践と、それに関する哲学的(あるいは社会学的)定式化実践とを 別の水準にあるもの・別の権利をもつもの とはみなさない、という点では、この議論は確かに「エスノメソドロジーから学んだ」と言われておかしくない。(また、あくまでその点をいうための きっかけとして定式化実践を例にとる ということであれば、おかしくはない。)

特に、「ついでに、」以下の主張は、エスノメソドロジーの主張ほとんどそのものであるように見える(念の為に書いておくが、私は、「この主張は これまでエスノメソドロジーだけが言ってきたものだ」などと主張しているわけではない)。
とはいえ、「事情が許すならビデオも使ってはどうですか?」とか「よく考えることもさることながら、よく見る──実際に行われていることを見ながら*考える──のも重要じゃないですか?」くらいのことは書いてみたいが。(ビデオデータは、もちろん「特別な研究者だけがアクセスできる特殊なやり方」では ぜんぜんないが(JK)、
ということはつまり、それはまた──社会学者や人類学者だけでなく──哲学者だってフィールドのビデオを見ながら考えたってよいはずだし・そうできるはずだ、ということをも意味しうるだろうが、それはさておき、
ともかくもそれは、研究者の想像力にかかる負担を減らしてくれる。単にプラクティカルな観点だけからいっても、これは ただの まぜっ返し 以上のことでありうると思う。)
* 再度 引き返していえば。「実際に行われていることを見ながら考える」ためには、様々なマテリアルが使える。ビデオである必要はもちろんない(JK)。

科学哲学者が失業しない2つの理由

  • 科学哲学という専門領域があることには2つの理由がある。それは、
    • [1] 科学についてのさまざまな考え方を戦わせ、蓄積していくためのフォーラムが必要であることと、
    • [2] 科学について語るためのさまざまな概念の分析が必要であることによる。[p. 35]

ごもっとも。ということで、こちらには特にコメントはなし。



こんな声があったので追記:

科学哲学のやり方としての自然主義

〈第一哲学/自然哲学〉
  • テツオ──センセイの話を聞いていると、科学哲学は本当は科学者がやればいいのに、科学者は本業で忙しいので、哲学者が下請けでやっているみたいに感じるんですけど。
  • センセイ──ははははは、おもしろいたとえだよね〔…〕。[…] 一つだけ、言っておきたいのはね、科学の方法論って何かとか、その方法は果たして信頼できるかとか、科学で何がどこまでわかるかみたいなことを、科学を始める前に、あらかじめ科学の外から示しておこうというプロジェクトはダメそうだよ、ってこと。いま挙げたような問題は認識論的問題って言われるんだけど、こうした問題は、科学をやりながら科学のなかで問う以外ないんじゃないかなぁ。
  • テツオ──けどそれじゃ、哲学の独自性がなくなっちゃうじゃないですか。
  • センセイ──テツオくんの言う「哲学の独自性」が、ものを知るとはいったいどういうことか、われわれは何をどれくらい知りうるか、ものごとを知る正しい方法は何かみたいな問題を、哲学が科学とは切り離された別のところで、哲学ならではの方法を使って考えていくことができるという意味なら、たしかにボクの考えは「哲学の独自性」というものに疑問を投げかける立場ってことになるよね。でも、それでいいじゃない。
  • テツオ──え、だってそれじゃ……。
  • センセイ──科学の探求に先だって、哲学独自の方法で科学の方法論を整備しておこうという立場を「第一哲学(first philosophy)」って言うんだよ。これって、われわれが世界について何を信じるべきかということを、われわれが現にどのようにして信じるようになっているかと独立に研究できると言ってるわけだよね。ボクが科学哲学の方法として主張したいのは、こうした第一哲学という理想を捨てましょうってこと。こういう考え方を「自然主義(naturalism)」って言うのね。自然主義者にとっては、科学哲学の仕事は科学の基礎付けじゃない。ええと、ここでの基礎づけってのは、科学の方法の信頼性をあらかじめチェックしておくこと、くらいの意味ね。むしろ、科学哲学の重要な仕事は、科学による科学の自己理解を助けることなんだと思う。[pp. 33-34]

ここでもやはり、「対象の記述的解明を通じて──記述対象に対して その あるべきあり方を介入的に指図しようとするのではなくて、むしろ──対象の自己理解に資することを目指す」という方針は、これまたエスノメソドロジーのそれと響きあうものだとは申せましょう。
でも、それを「あなたは自然主義です♪」って言われたら困惑するよね。



関連性の問題

  • センセイ──[…] こういうことを指して、説明は説明項と被説明項の関連性(relevance)に敏感に反応する、って言うんだ。
  • リカ──ということは、説明というのは、単に被説明項が論理的に出てくればいいというものではなくて、説明項に、被説明項を導きだすのに関連性をもつ必要最小限のものを置かなくてはならないということですね。[…]
  • センセイ──そうだよね。その「関わりのあるなし」つまりレレバンスの基準を明確にすることにヘンペルの四条件は失敗したというわけ。でも、この「レレバンス」というやつは、「説明」だけじゃなくって、およそ哲学的分析の対象にしたくなるような興味深い概念の分析には必ずといってよいほど顔を出す。そうして、形式的論理によるような分析をするっとすり抜けて、哲学者を悩ますくせ者なんだよね。[p. 107]

そこでエスノメソドロジーですよ。

形式的論理によるような分析」では済まなくて、実際のところひとはどのようにそれを切り抜けているのかを見たほうがよい時には。