平凡社哲学事典よりid:kei1982さん江。
実証的〔英〕positive〔独〕positiv〔仏〕positif
- 実証的と訳される原語 positive は、
- 第1に神または人間の意志によって設定された、という意味であり、自然的 natural にたいする。
たとえば自然神学にたいする実証神学。自然法にたいするpositive law(これは普通、実定法と訳される)。- 第2に認識において事実として経験されることを意味する。
てことで。
- <自然的/実定的>が第一の主導的区別。
- <想像的・架空の・想定された/事実的・現実的〜実効的>が第二の区別
です。(第1の区別があって、そのうえで第2の区別が生じる。)
「pose*されたもの」──あるいは「poseしうるもの」──だから positif。(あたりまえですが.....)
そういえば、──こうした語義を考えると──ここで引用されている『言葉と物』の事項索引で、
この訳者さんが いかなる権利をもってこんな事を──フーコーのいう positivite「はコント的意味をもちえない」などと──言えると考えているのか、謎ですな。
フーコー『言葉と物』の(訳者による)事項索引が興味深いですね。
実定性、実定的領域 positivite
フーコーは『言説の秩序』(邦訳名『言語表現の秩序』)のなかで、言説(ディスクール)の「断言する力」を説明して、「それらに関して真または偽の諸命題を肯定しもしくは否定しうるような、客体の諸領域を成立せしめる力」と述べ、その「客体の諸領域をpositivitesと呼ぼう」とつづけている(原文71〜72ページ)。こうしてみるとフーコーのpositiviteは、「言説(ディスクール)の成立を可能にする場およびその場の持つ性質」というふうに見ることができるであろう。この場合、この語はコント的意味をもちえないゆえに「実証性」という訳語は用いられない。もっとも、「実証性」の意味でpositiviteが使用されている場合は、「実証性」の訳語をあてた。実定的 positif
「実定的」の訳語についての説明は、「実定性」の項を参照にされたい。「実定的」という場合、「実定性、実定的領域」に対応する形容詞として用いられているのである。ただし、positifという語は、コント的意味での、「実証的」negatif(否定的な、消極的な)に対立する意味での「肯定的」「積極的」、数学用語で「マイナス」にたいする「プラスの」、具体的、効果的という意味での「明確な」などの意味を賦与されて使用されることもある。そうした場合には、そのときどきに応じて以上の訳語を使いわけた。
ま、どうでもいいけど。
ちなみにおなじく哲学事典の実証主義の項:
実証主義〔英〕positivism〔独〕Positivismus〔仏〕positivisme
- この語は、サン・シモンが、自然科学の方法とその哲学への敷延をさすために用いたのに始まり、コントに採用されて以来、19世紀後半から20世紀初めの10年間に及ぶ、西欧諸国で有力であった哲学運動を示す言葉となった。
- 経験的な事実の背後になんらの超経験的実在をみとめず、すべての知識の対象は経験的所与たる事実にかぎるとする立場で、近代自然科学の方法と成果にもとづき、物理的、精神的現象世界の統一的な説明を目ざすものである。
- コントの知識の三段階論によれば、人間の知識は第1の神学的段階から第2の形而上学段階を経て第3の実証的段階において完結する。この最後の段階においては現象の背後に架空的、擬制的な存在者または抽象的な実体を仮定することなく、現象を現象によって説明し、現象間の法則をとらえようとする思惟的方法が支配的となる。そしてすべての実証的な知識は、対象の複雑度に従って、数学、天文学、物理学、化学、生物学、社会学に体系づけられる。このような反形而上学的、相対主義的実証哲学、実証主義は、近代自然科学の飛躍的な発展にともない、19世紀後半の思想界諸分野に広範な影響をおよぼした。
- しかし実証主義の科学主義は、科学批判すなわち科学の成立および根拠の研究が進むにつれて、科学を成立せしめる経験自体の批判が問題となり、マッハの思推経済説やアヴェナリウスの経験批判論を生んだ。これは新しい実証主義の一動向であった。
- 学の扱う対象を、経験的なものの領域に限定しましょう[=経験への限定]
という方針と
- その「経験的なものの領域」そのものについても反省的に吟味しましょう[=経験の批判]
という方針は、双方ともにモダンな諸科学のごくノーマルなお約束なのであって、独りフーコーのみが、このお約束から逸脱している(=別の事をやっている)などと考える──あるいはそのように語る事ができると考える──理由はない、ですよね。