その、密かに盛り上がるコチークスレで...

また新たな展開をみせるコチークすれ。よろこばしい*1

なお、2chコチークスレ - ヲチスレ@みくし#はこちら:
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=5059347



K&K本を(世評が■■だったため)私は読んでないんですが──内藤論文を読む限り──、突っ込まれるべきところを突っ込まれるべくして突っ込まれているような感じですね。
実証主義」を標榜する内藤さんが、存在措定に──なにしろ positive というのは、存在の 措定pose のことなのでしょうから──こだわるのは当然のような気もしますが、他方の ここで批判されている「構築主義」を標榜するK&Kさんたちが、これほどまでに

内藤論文に引用され・批判されているところのほとんどが、「存在措定」に関わっているわけですが、それほどまでに

存在措定(の棄却)にこだわる理由が、私にはわからないです。そんなことしたら突っ込まれて当然。正直「なんだこりゃ??」って感じです。

だいたい──それ以前に理解に苦しむのが──、フィールドワーカーさんであれば、せっかくフィールドにいって いろんなことを調査して来たのなら、紙幅に制限のあるなかで なるべくそれを盛り込みたい、と思うものじゃないんでしょうか。 にもかかわらず、こんな「存在措定(の棄却)」のような──どうでもよい(といったらアレかもしれませんが)──事柄に、どうしてそんなに紙面を割く気になれるんでしょう‥‥と思ってしまいました。
ま、読んでないので暫定的な感想に過ぎませんが。



それで。もいちど書くと、「実証主義」を標榜する内藤さんが存在措定にこだわるのはそれなりに理解できる気がしないでもないし、そうであるがゆえに「構築主義の批判」をしようとする際に、論じる観点がどうしても「存在措定」の側面に限定されてしまうというのも わかるきはする。
が、その前提を取っ払って、もっと遠くからこの議論(批判している側/されている側の双方)を眺めてみると:

そもそもなんでそんなに<存在する/存在しない>──というバイナリーコード──にこだわってんの?

という素朴な疑問が、どうしても浮かんできてしまいます。。ま、いいんですけど。


さて。
530以降の展開は、さらに今度は「構築主義は、実体主義批判だったのか否か」という方向に、議論が進んでいるようですが。「実体(主義)」のような鵺のような言葉を巡って議論してみても、あまり楽しいことにはなりそうにないような気がするんですけど....どんなもんですかねぇ。>諸姉兄

たとえば、偉大なるアメリ社会学の父・我らが親愛なるタルコット・パーソンズ大先生の謂う「分析的リアリズム」を例にとってみると:
  • 「ユニットアクト」や「行為の準拠枠」は、観察者がもちいる分析的な枠組みである(=実体ではない)
という側面をとれば、「分析的リアリズムは実体主義ではない」といえるでしょう。
したがって、このスタンスからすれば、翻ってたとえば──認識論的懐疑の拒絶をはっきりと打ち出している点をとりあげて──ルーマンエスノこそ実体主義だ*」ということにもなりうるでしょう。
が、しかしそもそもこの議論が、主導的な区別として
  • <認識の所与/認識の枠組>
のようなもんを用いていることを指して、「分析的リアリズムは実体主義である」ということは可能ですよね。(ついでにいえば、「主体主義**」的でもある。)
こちらのスタンスからすれば、「ルーマンエスノは実体主義ではない*」ということにもなるでしょう。

なので、
  • 「分析的リアリズムは実体主義ではない」
  • 「分析的リアリズムは実体主義である」
という命題は、どちらも正しいでしょう。
しかしそもそも、「実体主義である/ない」とかいうところに照準した議論をしてみて、いったい何が面白いのか...。それが私にはわからないんですよねぇ...。
(というか‥‥御大御本人が「(分析的)リアリズム」だと標榜してるんですから、それは「実在論」なのでしょうにw。そこに何か問題が?)

* ご本人たちに尋ねてみれば──ルーマニ屋のひともエスノの人も──「どっちでもないよ」「そんなのどーでもいいよ」と答えるに決まってますが。
** 「主体主義」については、たとえば次の論考を参照のこと: いっしょにこれも読んでおくのが吉:


それはともかく、「実体」にしても「存在措定」にしても、あんまり構築主義には関係なさそうなのになぁ...という印象をもちつつスレを拝見していたのですが、しかし──スレを遡って読んでみたところ──33をみて大笑い。

  • 構築主義とは何か
  • 上野 千鶴子(東京大学教授)編
  • 四六判/250頁/上製 予価(本体2200円+税)
  • 1月下旬刊
  • [ISBN4−326−65245−4 C3036]

 社会的な規範や制度や出来事は、人々から独立に客観的に存在しているわけではない。それは言語に媒介され、構築されていると考えるのが構築主義である。理論的な背景はフーコーウィトゲンシュタインなど。
 本書は社会学に端を発し人文諸科学を席巻しつつあるこの新しい方法についての初めての入門・解説書である。執筆者には中堅・若手の気鋭を動員し構築主義の可能性を広く探っている。

いやぁ。見事に

人々から独立に言語に媒介され
客観的に存在する構築されている

という対比になってますねぇ。びつーくりです。
てことで。
内藤さんのような批判がでてこなければならなかったのは、上野先生のようなかたがたがいらっしゃったから、というまとめでよろしかったでしょうか。

この宣伝文を書いたのは頸草の編集のひとでしょうけれど。

<



ところでみなさん、構築主義について検討したこの論文はもう読まれてますか? ずいぶん時間が経っているわりにはあまり引用されることがないし、私もつい最近人に勧められて読んだのですが。よいですよ:
安藤太郎, 1997, 「社会問題研究の一つの方法──社会構築主義のプロジェクト検討──」
『年報社会学論集』第10号

高野山〜鼻くそ系(© 382)ですけどね。
なので、とりあえず>>385さんに、この論文をお勧めいたします。疑問の全てに答えを与えてくれる、というわけには(当然ながら)いかないでしょうけれど。
ちなみに「西坂」じゃなくて「西阪」ですが。

385 :名無しさん@社会人 :04/12/02 03:14:35 >>381 // snip もしエスノがそんなにいいのなら、どうして構築主義がはるかに優れたエスノをさしおいてメジャーになったのだろう? // snip
どーしてなんですかねぇ....。(教えて偉い人。)
しかし「よいものが売れる」というふうには世の中動いていないことくらい ご存知でしょう? EM側の営業努力の問題もあるでしょうが。

*1:皮肉ではありません。