つづき。
- 作者: 柘植あづみ
- 出版社/メーカー: 松籟社
- 発売日: 1999/12
- メディア: 単行本
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「患者のため」というクリシェがどういうロジックで登場しうるかについて論じた8章は相当おもしろい。
第6章 「自然である/ない」という観念と医師としての態度
第8章 医師としての態度と「個人」としての態度
- 医師としての態度と「個人」としての態度──立場による態度の相違
- 立場によっていかに態度が異なるか
- 立場による態度の切り替えに関する自己認識と評価
- 医師/「個人」としての態度の切り替え理由
- 立場による態度の切り替えが生じるプロセスとその論理
- 立場による態度の切り替えと「患者のため」
終章 なぜ不妊治療技術は進展し続けるのか
調査論ネタ。
不妊治療技術についての態度を聞き取った後に、「個人」としての態度、つまり「もしご自身が不妊だったとしたらどのような治療をしますか?」という質問をした。すると、調査対象者の多くが、このような質問は想定してなかったというように、驚いた表情をした。[‥]
そして、回答の特徴としては、男性に《わからない》と答えるもの、もしくは《ノーコメント》とする者が、少なくなかった。男性では、およそ一割から三割、女性ではおよそ一割の回答が、これらに分類される。《わからない》、もしくは《ノーコメント》とする理由は、「実際に子どもがいるから、その場になってみないとわからない」と説明されることが多い。これ以外の回答の場合でも、同様に「実際に子どもがいるから、その場になったら態度が変わるかもしれない」という条件がつけられることも少なくなかった。
いくtかの研究会において、調査の中間報告を行った際に、複数の(人文・社会科学系研究者の)方から、「実際にその場になってみないとわからない」という回答は当然のことであり、私の質問はあくまでも「もしも」という仮定の質問だから、医師の態度を知るには無意味ではないかという疑問を呈された。
私はこのような質問に対して戸惑った。なぜそのような質問が生じるのか理解できなかったからである。なぜなら、私は、調査対象者が、医師としての態度と患者としての態度を変えるか変えないのかということを「問題」としているのではなく、それについてどのような「語り方」をするかによって、医師自身が、立場の転換による行動の転換についていかなる認識をしているか、を分析しようとしていたからである。
「個人」としての態度を尋ねることに疑問を呈した人びとは、私が「医師は患者の立場を慮って治療をするべきである」という倫理的な立場に立って調査を行っており、その結果が「わからない」というような「白黒つかない」回答が多いために、この調査を失敗だと誤解したのだと、あとになって気がついた。
繰り返しになるが、私が、この質問によって期待した回答は、「ほんとうに患者の立場となったときの態度」ではない。「もし患者だったら」という質問に、調査対象者が「驚く」という反応が、すでに、十分に有効な調査データなのであるし、「実際にその場になってみないとわからない」という回答も、豊富な解釈の可能性をもたらすデータとして、質問した意義があったことを示す。
[‥] 極端ないい方をすれば、私が期待したのは調査対象者の「本音」ではなく、それが「本音」であっても「建前」であっても、調査対象者が私に対して、何を説明するか、どのような理由をつければ私が納得すると考えているのか、それを知りたいのである。[p.296-300]
この研究会が 社会学の研究会ではないことを希望します。(でも「社会科学系」って書いてあるよ.....)
というかしかし。
「納得調達のやりかた」を調べているのなら、なぜそれを「態度(=認識+行動)」と呼びますか。
ちなみに、上の引用には、次の文が続きます。おもしれー
ここでの態度がいかに異なっているのかの量的分析は、その数値の精確さを重視するものではなく、あくまでも、傾向を把握するための作業なのであるということを強調しておきたい。
さて。これは何に対する予防線でしょうか。
いまアマゾンのカスタマーレビューをみたら...
不妊治療に対する医師としての意見と医師ではない個人としての本音が読み取れておもしろい。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4879842095/niklasluhmann-22/ref=nosim
と書いてあってスポロン噴いた。
著者のひともたいへんだな。