「理由の論理空間」二題

朝食。

知覚について:現代哲学の戦略―反自然主義のもう一つの別の可能性

理由の空間への内存在:

いつもながら、勝手に改行とか入れてますよ。

 知覚による信念の正当化の問題は、マクダウェルによってディレンマの形で表現された。

  • (a) 知覚が非概念的な状態であるなら、概念的である信念に理由による制約を与えることができない
  • (b) 知覚なしには、世界からの制約が失われる。
  • (a) を肯定することによってマクダウェルは、推論的な理由の空間を無理に拡張して、非概念的な知覚経験あるいは感覚からの制約を取り込もうとする経験主義的な基礎付け主義を批判する。
  • (b) を肯定することによって彼は、知覚経験からの正当化の寄与、知覚経験による世界への応答を認めない 整合説と対立する。

このディレンマを解決するマクダウェルの著名な解答は、

  • 信念や思考を構成する概念が、世界からの制約を与える知覚の受動性のうちですでに働いている

というものである。経験を心的な領域に生ずる主観的観念とみなす傾向を、近代哲学から受け継いだ分析哲学者たちにとっては、こうした経験概念の登場は衝撃であった。


 知覚は概念的であることによってすでに「理由の空間」の内部にあり、知覚についての信念・判断は、「事物はかくかくである(that things are thus and so)」という知覚内容を、世界のレイアウトの一位相として思考内容とすることができる。

二つのことを注意しておこう。

  • 第一に、知覚の概念的内容は、概念的な分節化を通して出現する世界そのものであって、けっして観念や印象として主観の内面で体験される媒介的な表象ではないということ。マクダウェルは、経験という位相における直接的な実在世界との接触を承認する。
  • 第二に、概念的な知覚内容が、that構文によって支配される命題内容の類似物であるように見えるが、知覚の概念性の主張の力点は、むしろ、知覚経験に内在し判断へともたらされる概念が、他の概念とともにネットワークを形成して理解されている ということにある。マクダウェルは次のように述べる。

経験のうちで用いられる能力が概念的であると認められるのは、その能力をもつ誰かが一定の合理的な関係に対して応答するという事実を背景にしてのみである。その合理的関係とは、経験についての判断の内容を、他の判断可能な内容と結びつけるものである。こうした結びつきが、世界についての可能的な展望の内部での要素として、概念にその位置を与えるのである。[『Mind and World: With a New Introduction by the Author』]

[..] 経験という位相において世界を理解することは、概念のネットワークの背景的理解を通してのみ可能なのであり、思考とは、こうした概念のネットワークに 付加された何ものかではなく、この概念のネットワークの明示的な行使なのである。[p.192-193]

そこで 社会的システムの「システム構造」、というわけですよ。

マクダウェルの「概念」と批判者の「概念」:

[..] 経験のうちで働いていて必ずしも明示的には命題的ではない概念 という考え方は──少なくとも概念を推論の構成要素をなすものとみなす限りは──容易に受け入れられうるものではない。マクダウェルの直示的概念への批判を展開している論者のうち、S・ケリーの批判のひとつは、

  • この直示的概念が概念である以上、知覚における状況依存的な内容を捉えることができない

という点にある。

たとえばシルクのスカーフの緋色と、金属のボールの緋色は、客観的に同一な色として「この緋色」によって再認可能かもしれないが、知覚された色としては異なって経験される。スカーフや金属ボールという、この性質が属しているものとして知覚される事物を考慮に入れなければ、色の経験の差異は捉えられない。マクダウェルの直示的概念は、知覚の内容を取り出すには荒すぎるというわけである。つまり、

マクダウェルの反対者たちは、マクダウェルの主張する「概念」の構成的機能に注目しないで、むしろそれとは反対のものを「概念」と名づけているようなのだ

  • マクダウェルの「概念」が 環境的条件や事物それ自体に 経験された世界の位相(例えばある状況で見られた色)が依存している、そのあり方の理解を可能にすることを通して、経験が世界の 直接的な経験であることを構成するのに対して、
  • ケリーら反対者にとって「概念」は、事物や環境的条件のような状況依存性からは断ち切られた存在にすぎない。 [p.197-198]

概念は媒介(物)ではない。それは構成的に働く。


行為について:心を世界に繋ぎとめる―言語・志向性・行為

■理由の空間/経験の法廷

[p.21]


この本は隔靴掻痒の感ありですな。