トップの交代 Fürungswechsel

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「トップの交代」というのは別に術語的に用いられているわけではないでしょうが──言葉の選択自体、半ばジョークでしょうし──、それはともかくとして。
「環境を顧慮した議論なのか、それとも当のシステム自身を顧慮したものなのか」という観点から、(通常は 無関係な あるいは 対立するものとして捉えられている)歴史上の様々なる意匠を・統一的に

そして、「どっちかだけで済む訳は無いよな」という直感のもとで

比較できる というところに、「〈外部参照/自己参照〉の交代」という議論の美点があるわけです。
たとえば こんな感じ↓



1993 『社会の法〈1〉 (叢書・ウニベルシタス)
  • 邦訳 p.95- [目下議論されている箇所]
  • 8章:概念法学[VI]/利益法学[V]
2002 『社会の教育システム
  • 邦訳 p.167-180 [外部参照の例: 経済 p.168-、家庭 p.170-、政治 p.173-、学 p.176-]

 学校や大学を終えた者がふさわしい仕事と相応の収入についての期待をかける相手としての〈経済〉は、[経済]それ自身の自己記述(個別的合理性や均衡指向)によっても、その作動基準(費用/便益計算)によっても、教育システム中にまるごとコピーされるものではない。したがって、経済システムについては、その断片にすぎない雇用システムだけが、教育システムにとって意味をもつ。我々の卒業生は 身につけた就業教育にふさわしい就職ができるだろうか? いつものことだが、そうなる者もいるし、ならない者もいる。
 こうした乖離と計算不能性は、長期的なキャリア計画と短期的な経済変動を考えただけでも不可避的だといってよい。そのような条件のもとでは、政治システムに仲立ちしてもらっても、共通の計画など考えようがない。その代わりに、問題は 対立方向の二つの原理──〈専門知識が役立つだろう〉/〈広い知識が役立つだろう〉──に分解され、教育システムは両者のあいだを振動することになる。[p.168-169]

この箇所では──単なる「Fürungswechsel」ではなく──「振動」という語で論じられているが、これは対象側の事情による。
  • 邦訳 p.237 [自己参照の例]


これら↑の著作では、「〈環境への準拠/自己への準拠〉の交代」が論じられていたのに対して、『社会の芸術』では、芸術が自律性を獲得するための抵抗先(と、そこへのコンタクトポイント)の「交代」が──この言葉 Fürungswechsel で──論じられている。

1995 『社会の芸術 (叢書・ウニベルシタス)
  • 邦訳 p.298-
    • 近代初期: 科学によって立てられた真理要請への抵抗 ── テクスト芸術(詩学
    • 1900年前後: 伝統による拘束の拒絶 ── 音楽(調性の拒否)と絵画(像の類似性の拒否)

芸術の種類が多様であるということは、芸術システムの分出という進化の過程のうえで、必要な機能を担ってきたと言いうるだろう。それはちょうど、近代初期のヨーロッパ内部での国家の文化が 環節分化のかたちをとることによって、長足の進歩をもたらす実験のチャンスを生じさせたのと同様である。システム全体を一挙に転換させて、すべてを誤りの危険にさらす必要はない。成功が充分にありそうであることがわかっている領域から始めればよいのである。

  • 主権国家への移行は、ヨーロッパ全体で生じたわけではなかった。
  • 近代の経験的-数学的方法論によって、既存の知の全体において同時に革命が生じたわけではない。
  • 模倣への拘束は、ある種の芸術でなく他の種の芸術によって解体されたのである。

しかしこの類いの前衛的攻撃がなされることによっても、その時々のシステムの統一性は守られ・再生産される。それほどの指導力をもたないセクションは普及のプロセスによって包含され、自身の可能性を試してみるように促されるのである。



■追記:
ゲーレンの用いた言葉らしい。http://d.hatena.ne.jp/contractio/20081110#p2