コミュニケーション-と-一般化したコード

〈体験/行為〉図式って、もとをたどればディルタイのもの*だと思うんだけど**、この点について論じた論文ってないのかな。

* 「生は、内側からは体験され/外からは行為としてみられる」(大意)とか。「生は 体験され/表現され/理解される」(大意)とか。
そもそも、「意味とは体験処理の形式である」というルーマンの基本テーゼからしてもう「ディルタイ的」だと評しうるものだろう。(「『論理学研究 1』を読んだあとのディルタイ」だけど。)
** 私が調べた限りでは、ルーマンは──なんと恐ろしいことに──〈体験/行為〉図式の出典をひとつも挙げていない(!)。私は、これが私の見落としであることを願っているが、もし典拠をあげている箇所をご存知の方がいたらぜひ教えていただきたい。


権力

権力

Soziologische Aufklaerung 1 - 6

Soziologische Aufklaerung 1 - 6

2巻「Einfürende Bemarkungen zu einer Theorie symbolisch generalisierter Kommunikationsmedien」

 コミュニケーション・メディアの理論に基礎をおく権力理論は、旧来の様々な権力理論と多くの点で異なっているが、その中でもおそらくいちばん重要な点は、

  • 権力という現象を コードコミュニケーション過程 の差異に基づいて把握しようとしていること、
    それゆえまた、権力を──パートナーの一方の 属性能力 に帰すわけにはいかないと考えていること

これであろう。権力は、コードによって操縦されるコミュニケーション である権力の 権力保持者への帰属 は、このコードで規制されているのであり、そのことは、遵守動機の強化、責任、制度かの可能性、変更願望の表明などに広く影響を与えている。当事者の 双方 が行為しているにもかかわらず、それによって生じることは、すべて権力保持者 だけに 帰属させられる。

しかしながら、対象それ自体の中で働いているこの帰属化の規制によって、科学的な分析が惑わされるようなことがあってはならない。権力の成立にとって、権力保持者は権力服従者よりも重要であるとか、権力保持者の方が権力服従者よりもなんらかの意味で〈より原因的〉であるという表現を生み出すのは、このような[帰属の]規制ではない

メディア・コードによる帰属化の規制が、それ自体でさらに科学的分析の対象になりうるのであり、わたしたちは、この規制の諸機能についてもさらに問うことが出来るのである。

だがしかし、そうするためには、まず最初に、分析用具から帰属に関する先入見をそぎおとしておかなければならない。そしてこの必要条件は、同時にまた、社会からの科学システムのより強い分化という自体とおなじ線上にあるのであり、いまのわたしたちの場合でいえば、科学と政治をいっそう明確に分化させなければならないという要請と結びついているのである。


 以下の後論でつねにわたしたちの導きの糸になるのは、一般化されたコード 選択的なコミュニケーション過程 という この区別である。[...]

『権力』(1995)邦訳 p.24-25
テーゼ: コードはコミュニケーションにおける帰属を規制する

このテーゼのもとで「コードの研究」をおこなことができるためには──当然のことながら──、「コミュニケーションにおける帰属のあり方」の詳細が分析できなければならない(それによって初めて、われわれは どのようにして-何が コード「として」働いているのか を突き止めることができるだろう)。では、ルーマンは──社会システム理論は──それをどのようにして行いうるつもりなのだろうか。