涜書:井口(2011)「ルーマン権力論の構図」

死ぬほど長い。
途中で何度か意識を失った。

  • はじめに
  • I ルーマン権力論の出発点と位置
    • 1. 非実体論的な視点
    • 2. コミュニケーション理論と双方向的な視点
    • 3. 分化論と狭義の権力概念
    • 4. 境界問題と実在論的な視点
  • II 象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアの理論と権力概念
    • 1. なぜコミュニケーション・メディアが要請されるのか
    • 2. コミュニケーション・メディアの機能と構造
    • 3. 権力メディアの動機づけの形式とコード
  • III 権力概念の特異性と示唆
    • 1. 権力はコミュニケーションである
    • 2. 権力の双方向性と自由
    • 3. 権力と強制の区別
    • 4. 権力の虚構性と信憑性
    • 5. 権力の肯定的・産出的な働き
    • 6. 多様な権力源泉と権力の偏在性
    • 7. 権力の様相化
    • 8. 潜勢力としての権力
  • IV 脅し権力と支配の正当性
    • 1. ルーマンと正当性論の対立
    • 2. 服従者の選択性と権力の限界性
    • 3. ネガティヴとポジティヴの矛盾
  • V ルーマンの政治的権力論
    • 1. 政治的権力論の注意点
    • 2. 権力の亢進をめぐる新たな視点
      • (1) メディアの選択媒介能力の上昇という視点
      • (2) 物理的暴力と象徴的な一般化
      • (3) 権力の潜在性と対抗権力の増大
    • 3. 政治的権力の諸条件
      • (1) 脱人格化と職掌
      • (2) 行為連鎖と権力の再帰的適用
      • (3) 法による第二コード化
    • 4. 政治的権力論の特異性
  • おわりに


■メモ
主要な重要論点は 次の二つか。

  • [1] ルーマンはなぜ「支配の正当化」についての議論を必要としないのか。
    「支配の正当化」を云々するひとたちが その議論を必要とする理由はなにか。
  • [2] 「権力における様相化」とは「何の」「どういう」様相化のことなのか。

[2] は III-7、[1] は IV-1 で論じられている。

【1】ルーマンはなぜ「支配の正当化」についての議論を必要としないのか。

「支配の正当化」の論理: 強制+正当化

パーソンズ政治と社会構造〈下〉 (1974年)』からの引用:

権力は,集合的組織体系の諸単位による拘束的義務の遂行を確保する一般的能力であって,この場合の

  • [a] 義務は集合的目標との関係に準拠して正統化されており, 〔←正当化〕
  • [b] 不服従の場合には,実際にはどのような強制機関によるものであれ,状況的な消極的制裁による強制が予想される 〔←強制〕

(Parsons 1969=1974:75)

それへのコメント:

ところで,なぜパーソンズは強制だけでは不十分だと考えたのか,つまりなぜ合意的側面への注目が必要だと考えたのか.それは彼が次のように考えるからである.

無理押しとか強制に訴える場合の自我の本来的なねらいは,他者の側の望ましくない行為の制止である.したがって,物理的力はまず第一に,「究極的」な制止として重要である
(Parsons 1969=1974:81).

つまり,強制は服従者の行為の制止のためにしか有効ではなく,積極的な行為の動員のためには他の誘因が,つまり利益の約束が欠かせないと彼は考えるのである。
(p. 140)

ルーマンはといえば、「強制」するには「相手に付き合って〜〜〜させる」ということが必要だから、コストもかかるし複雑なことはできないよね、くらいのことは言ってた気がするね。それと、「強制は服従者の行為の制止のためにしか有効ではない」ってのは、やっぱりちょっと距離がある気はする。

    • -

この節にはバーナードの服従論についての議論もほしかった。

あと この論文、「暴力あるいは強制」と「権力」の違いをこれだけ強調してるのに──かつこれだけ長いのに──「暴力と権力の共生的メカニズム」についてはコメントがないね。

【2】「権力の様相化」とは、「何の」「どういう」様相化のことなのか。

pp. 135-136 における『権力』2書3 からの引用:

 権力というコミュニケーション・メディアの基本構造、すなわち、上述の(残念ながらそれをこれ以上簡潔に定式化することができないのだが)相対的に否定的に評価される選択肢の組み合わせと相対的に肯定的に評価される選択肢の組み合わせという逆方向に条件づけられた結合は、権力が可能性(潜勢、チャンス、傾性)として現象し、そのようなものとして作用するための基礎である.この基礎のうえで、権力の観点に立ったコミュニケーション的な相互行為の様相化がおこなわれる52

物事がテーマとなるコミュニケーションでは、一方の側のひとがその見解を押し通す可能性があるということが、同時に考慮されている。ところが

権力では,可能性としての一般化ということを通じて諸文脈の対等化がおこなわれ、切れ切れで状況的にしか与えられていない現実から一定の範囲内で自立化がおこなわれる。

ネルソン・グッドマンの定式化53を用いれば、可能なものの 投射projection が 現実的なものの裂け目を埋めるのである。

[…]
様相化を通じて過剰な可能性が産み出される。権力は、たえず現存しているひとつの可能性であり、そして、権力保持者に彼の能力あるいは属性であるかのうように帰属させられている。とはいえ、しかしながら権力は、たえず行使されているのではないし、とりわけ権力の領域内にあるすべての人に向かって、すべての主題に関してたえず行使できるものではない。[…] だから、権力保持者は、自分自身の権力に対して選択的にふるまわなければならないのである。いいかえれると、彼は権力を投入するか否かについて熟考しなければならず、自分自身を規律化できなければならない。[…] いずれにしても、権力メディアによる様相化という社会的な事実からして、権力理論は二つの水準を同時に顧慮しなければならない。

  • 潜勢力としての権力が構成される発生的・構造的な諸条件と,
  • 権力が行使される際の構造的・状況的な諸条件

がそれである(Luhmann 1975=1986:38−9)。

「二つの選択肢集合のペア」は──それ自体も確かに「様相化」だけど──、「権力の様相化」──の基礎なのであって──そのものではないよ、と。では、「権力の様相化」という事態はどういうものなのか、という論点。

しかし...。著者は、「何が様相化されるのか」という問いに対して「権力だ」と答えているけど、引用文みると、

  • 権力の観点に立ったコミュニケーション的な相互行為の様相化

と書かれているので、「コミュニケーションの様相化だ」と言いたくなるんだけど???