夕食。良書。
- 作者: 萱野稔人
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2007/07/01
- メディア: 単行本
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むつかしいことを平明な言葉で語っているし、論文集なのに(?) ちゃんと筋とおってるし、偉いですねぇ。
さて。萱野先生いわく:
フーコーにとって権力とは、行為が行為を[‥]規定するときに作用する力の関係にほかならない。/ 晩年のインタビューでフーコーはこう述べている。権力の諸関係がみいだされるのは、
一方が他方の行動を規定しようとし、他方がそれにたいし、みずからの行動を規定されないように、あるいは相手の行動を規定し返すようにして応答するような戦略的な作用関係
のなかに、であると。/ つまり、諸行為がたがいに規定しあう関係が権力の諸関係をくみたてるのである。重要なのは〈諸行為がたがいに〉という点だ。[‥]
権力の行使とは、ある者が他者の可能な行為領野を構造化する仕方である、という定義をふたたび取りあげよう。このとき権力関係にとって固有なのは、権力関係が諸行為をめぐる行為の様態である、ということである。[‥] 社会で生きるということは、たがいに行為に働きかけあうことが可能となるように生きるということである。≪権力諸関係なき≫社会とは、ひとつの抽象でしかありえない。
この引用文には、フーコーの権力概念をとらえるためのポイントがつまっている。これをもとにわれわれは、フーコーのいう権力とはどのようなものかについて、いくつかの論点を導き出すことができるだろう。
- 権力は、力の関係として、つねに関係性のもとで考えられなくてはならない。[‥] 権力は行為と行為の「あいだ」で作用する。[‥]
- 権力は、行為の関係をつうじて行為のあり方を規定する。[‥] 権力は、行為のあいだの関係を定めながら、そこに特定の様態をあたえるのだ。
- 権力は[‥]行為のあり方を規定することで、身体と身体、身体とものとの関係をも定める。[‥]行為とは、身体とほかのものとの関係の実現である。権力は、行為の様態に作用することで、そうした[‥]関係をあらためて設定するのだ。[‥]
- 権力の固有性は、それがまさに人間の行為に働きかけるというところにある。権力は[‥]特定の様態のもとで行為が産出されるように作動する。この点で権力は、[‥]暴力とははっきり区別されるだろう。[‥]
- [‥]
- 権力は諸行為のあいだの関係に内在しながら、特定の様態のもとで行為を産出する。[‥] 諸行為がたがいに規定しあうことで特定の行為関係が生み出されるとき、その行為関係の内側で作動している力の関係が権力である。[‥]
- [‥] [p.155-162]
このフーコー読解に賛成した上で、すぐに指摘できることがいくつかある。
- この議論においては、「行為」という概念が極めて未分化なまま用いられており、まさにそのことによって こうした議論が可能になっている。
- それに正確に対応して・その分だけ、「権力」概念は無内容になっている。
- そしてそのことが、「行為諸関係」なるものの評価や記述の別様可能性(について考察すること)を遮断する*。
そしてこれらが相互に・循環的に強化しあっている。
ところで、ここにいう、行為と行為が結びついた「錯綜した戦略的状況」を、タルコット・パーソンズは「社会システム」と呼んだ。権力をめぐるフーコーの議論は パーソンズの社会システム論に酷似しているが、しかしパーソンズはといえば、その関係を「権力」というたった一つの名前に還元しようとはしなかった。他方、フーコーの議論では、
権力の諸関係とは 行為にとっての可能性の条件にほかならない [p.165]
という語用が採られる。
いずれにしても。
ニクラス・ルーマンが生涯をかけて 根こそぎひっくり返そうとしていたのは、まさに こうした──フーコー/パーソンズ的な──「行為-の-システム」という表象だったのでありました。 ...というまとめで。
* というだけでなく、そこで両者が、様相**まで含めて──というか 様相mode こそを──問題にしているという点における フーコーとルーマンの共通性は、きわめて重要である。
** 本書から言葉を拾うと、「可能な行為の領野を構造化する仕方」とか「行為にとっての可能性の地平をくみたてる」[p.162] といった議論がそれにあたる。 ところで ルーマンのテクスト(の邦訳)のほうでは、Modifikation に「様態化」だったかの