納涼主体化祭り:廣瀬浩司(2011)『後期フーコー──権力から主体へ』

とりあえず序論と「第III部 パレーシア講義の射程」を再訪。

  • 序章 権力システムのゼロ地点
    • 1 「パノプティコン」 モデルを越えて
      • (1)権力の合理化とそのテクノロジー
      • (2)行為する身体とその自由
      • (3)可能性の主題と不可視なものの炸裂
      • (4)鏡における認知と自己であることの恥ずかしさ
      • (5)精神の現実性=実在性と権力の肯定性
    • 2 限界経験とその規律化
      • (1)限界の試練
      • (2)フィクションと真理のゲーム
      • (3)諸限界の作動としての規範化
      • (1)規範化を内在化させた行為における自己と自己との関係
      • (2)限界経験と規範化
      • (3)権力システムのゼロ地点
      • (4)ゼロ地点の 「生」
  • 第5章 真理の語りと政治
    • 1 パレーシアと三つの軸
    • 2 逆転された行為遂行的発言としてのパレーシア
    • 3 「経験」 としての政治
    • 4 「エートス的差異化」 と 「現実」
    • 5 キュニコス派とその 「戦闘的な生」
    • 6 経験の諸位相
  • 第6章 私たち自身の存在論
    • 1 カント 「啓蒙とは何か」 読解の背景
    • 2 アクチュアリティへの問いとパレーシア
      • (1)公衆という現実
      • (2)デカルト的契機とカント的契機
      • (3)パレーシアとしての現在への問い
      • (4)アクチュアリティの発生の表面としての哲学
      • (5)啓蒙のトートロジー
      • (6)現実の二重化と記号の制度化
    • 3 私たち自身の存在論
      • (1)限界におけるエートス
      • (2)考古学と系譜学の中継としての存在論
      • (3)アクチュアリティの試練と自己の垂直な奥行き
    • 4 普遍的知識人と特殊的知識人
  • 終わりに 時間の皺
    • (1)カントとヘーゲル
    • (2)描線の限りない加算
    • (3)「今日」 の思想

2 アクチュアリティへの問いとパレーシア

(2)デカルト的契機とカント的契機

 以上から「啓蒙とは何か」読解の位置づけがようやく鮮明になる。デカルトにおいて「省察的訓練」の枠組みに「方法」を組み込み直したように、カントにおいては「批判哲学」に覆い隠されていた「パレーシア」の主体を浮き彫りにし、パレーシアの歴史に批判哲学を組み込み直すことが、フーコーの第一の課題となるだろう。そして批判哲学が、理性の限界への問いから出発して超越論的哲学を創設し、同時に経験的=超越論的な二重体や人間学的まどろみを生み出したとするならば、パレーシアの歴史においてはこのまどろみそのものを歴史的に位置づけるような視点が切り開かれなければならないだろう。このことをフーコーは『主体の解釈学』の講義草稿で次のように記していた。

 〔カント主義の〕批判的な問いは「いったいどのような一般的条件のもとに主体にとって真理がありうるのか」ということであるが、私が提起しようとしている問いは次のようなものである。「主体について真を語るという命令が発せられるためには、いったいどのような変容に、特殊で歴史的に規定可能などのような変容に、主体は従わなければならなかったのか」(HS, 243/297)。

 批判哲学はデカルト的な契機の反復として、主体の真理の一般的な条件を問う。それに対してフーコーは、そのような命法そのものを可能にするような主体の変容を、その「特殊で歴史的に規定可能な」形態において問うのである。[pp. 276-277]