とりあえず序論と「第III部 パレーシア講義の射程」を再訪。
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2 アクチュアリティへの問いとパレーシア
(2)デカルト的契機とカント的契機
以上から「啓蒙とは何か」読解の位置づけがようやく鮮明になる。デカルトにおいて「省察的訓練」の枠組みに「方法」を組み込み直したように、カントにおいては「批判哲学」に覆い隠されていた「パレーシア」の主体を浮き彫りにし、パレーシアの歴史に批判哲学を組み込み直すことが、フーコーの第一の課題となるだろう。そして批判哲学が、理性の限界への問いから出発して超越論的哲学を創設し、同時に経験的=超越論的な二重体や人間学的まどろみを生み出したとするならば、パレーシアの歴史においてはこのまどろみそのものを歴史的に位置づけるような視点が切り開かれなければならないだろう。このことをフーコーは『主体の解釈学』の講義草稿で次のように記していた。
〔カント主義の〕批判的な問いは「いったいどのような一般的条件のもとに主体にとって真理がありうるのか」ということであるが、私が提起しようとしている問いは次のようなものである。「主体について真を語るという命令が発せられるためには、いったいどのような変容に、特殊で歴史的に規定可能などのような変容に、主体は従わなければならなかったのか」(HS, 243/297)。
批判哲学はデカルト的な契機の反復として、主体の真理の一般的な条件を問う。それに対してフーコーは、そのような命法そのものを可能にするような主体の変容を、その「特殊で歴史的に規定可能な」形態において問うのである。[pp. 276-277]