手塚博(2011)『ミシェル・フーコー:批判的実証主義と主体性の哲学』

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  • 序論
    • 断絶
    • 一貫性
    • 批判という方法
    • 本書の構成
  • 第1章 人間学の問題圏
    • 1 古典主義時代のエピステーメー
      • 方法
      • 古典主義時代の淵源:デカルトの『規則論』
      • 順序-秩序と比較
      • 論理学と心理学1
      • 分析と観念の論理的秩序
      • 論理学と心理学2
      • 反省と記号
      • 記号の一般理論
      • 絶対的に透明な言語
      • 経験の順序と論理の順序の不一致
      • 古典主義時代の知における人間の不在
    • 2 近代のエピステーメー
    • 3 有限性の形而上学
  • 第2章 規律権力・人間諸科学・主体性
    • 1 権力の分析論
    • 2 規律権力の形成過程1:刑罰と社会秩序
    • 3 規律権力の形成過程2:資本主義社会の秩序
    • 4 監獄の失敗と人間諸科学の形成
    • 5 他者認識の権力──真理の現実化1
    • 6 自己認識の権力──真理の現実化2
  • 第3章 生物権力と主体性
    • 1 生物権力の問題圏
    • 2 カンギレムと生物権力
    • 3 生物権力と自然性
    • 4 フーコーの哲学的企図

序論

一貫性

1984年に変名で執筆されたフーコー自身による自著解説。「さすが本人」wという要約。[08]
付番は引用者によるもの。

 〔『知の考古学』が属する一連の問題においてフーコーは〕主体が主体として認識の対象となることを可能にする、対象化と主体化の過程はいかなるものだったのかを扱ったのである。歴史のなかで「心理学的認識」がどのようにして形成されてきたかを知ることではなく、主体が認識の対象となる様々な真理のゲームがいかにして形成されてきたのかということが問題である。ミシェル・フーコーはこの分析を二つの方向に導こうとした。

  • [1a] 話し労働し生きる主体の問題が、科学的地位をもつ認識の領域の内部に、またそうした認識の形態に従って出現し組み込まれる仕方。
    • それについては、17および18世紀に固有の経験的諸科学とその言説を参照しながら、ある種の「人間諸科学」の形成が問題となった(『言葉と物』)。
  • [1b] またミシェル・フーコーは、狂人・病人・犯罪人という資格で規範的分割の向こう側に出現し、認識の対象となりうるような主体の構成をも分析しようとした。
    • 分析は、精神医学、臨床医学、そして刑罰といった実践をとおして行われた(『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『監視と処罰』)。
  • [2] そしてミシェル・フーコーはいまや、同じ一般的計画の内部において、主体自身にとっての対象としての主体の構成を研究する企てをもっている。
    • つまり主体が可能な知の領域として主体自身を観察し、分析し、解読し、認識するに至る手続きの形成である。
    • 要するにそれは「主体性」の歴史であり、主体性という言葉はここで、主体が自己へと関係する真理のゲームの内部における主体自身についての経験の仕方が理解されている。
      • 性とセクシュアリティの問題は、おそらく唯一の可能な例ではないにしても、少なくとも特権的な事例を構成するものとして、フーコーには思われた。

批判という方法

[09-10] 「歴史的存在論」について。

 フーコーは 晩年の論文「啓蒙とは何か」において、それまでに自らの展開した思考の企図を包括して、「我々自身の歴史的存在論 ontologie historique de nous-meme」という概念を提示する。それは、可能性の条件への問いというカントに発する問題を引き継ぎながら、我々の実存の可能性の条件を明るみに出す「批判」の営みである。だがそれは、可能性の普遍的な条件ではなく、歴史において成立した偶然的な条件に照準が合わされる。そしてフーコーは、我々の実存を構成するものとして、知・権力・主体化という三つの要素を順次とりあげた。各段階において断絶があるかのように見えるフーコーの思考の一貫性を成すのは、したがって、実存に対する問いである。
 「我々自身の歴史的存在論」とは、我々の実存の可能性の条件を可視化すると同時に、そのことによって、探求の主体自身が変容するような、そうした思考の活動である。少し長くなるが、フーコーのすべてのテクストの中でも、最も重要な言葉の一つなので、引用しておこう。

フーコー1984)「啓蒙とは何か」

… 我々が行い、思考し、言うことの主体として我々を構成し、また、そのような主体として我々を再認するように我々を誘った、もろもろの出来事を巡って行われる歴史的調査として、批判は行使されるのである。… 批判は、その目的において系譜学的で、その方法において考古学的である。

  • 考古学的であり 超越論的ではないというのは、この批判が、あらゆる認識、あらゆる可能な道徳の普遍的諸構造を明らかにしようとするのではなく、我々が考え、語り、行うことを分節化している言説を、どれも歴史的な出来事として扱おうとするという意味においてである。
  • この批判が系譜学的であるというのは、我々が行い得ない、あるいは、認識し得ないことを、我々が存在する形態から出発して演繹するのではなく、我々が現在のように存在し・行い・考えるのではもはやないような仕方で 存在し・行為し・考える可能性を、我々をこのように存在させている偶然性から救出するであろうからである。

 … 批判は、自由の無限定な作業を、可能な限り遠くへ、可能な限り広く追求することを目指すのである。