三宅雄彦「政治的体験の概念と精神科学的方法(1)」

あらたいへん。続きもののうちの一本だというのに 100頁以上ありますよ。
博士論文ですかね。


先日読んだの()は、スメントの「精神科学的」方法なるものを、同時代の論者(ニコライ・ハルトマン〜マックス・シェーラー)との比較のもとで論じたものでしたが、こっちは「ディルタイまで──〈生〉〜〈体験〉まで──遡って再構成してみよう」という趣旨のものであるようでございます。


熱い。というかむしろ熱苦しい。おもしろかったけど。



論文の構成

(改行を勝手にいれました。以下同様)

本稿の議論は次のように展開される。

  • まず、憲法学説、大学論、法史学、教会法学といった諸々の学問領域におけるスメント理論を手掛かりに、スメント理論全体から政治的体験の概念へと遡行する。
    • つまり、憲法学説、大学論、法史学、教会法学の根底に、生の探求としての科学という考え方が存在することを明らかにし(一)、
    • それに連続して、憲法学説の構造に、即ち、国家理論、憲法理論、国法理論の構成に、政治的体験の探求の科学という考え方が潜在することを明らかにする(二)。
  • そして、ディルタイ哲学、即ち、『精神科学序説』一巻及び二巻、『体験と詩作』といった諸々の個別作品におけるディルタイ哲学を手掛かりに、スメント憲法理論、即ち、『憲法憲法法』という主著におけるスメント憲法理論を読み解くべく、政治的体験の概念からスメント理論全体へと帰還する。
    • つまり、ディルタイ哲学の根幹に、生による精神諸科学の基礎づけという考え方が存立することを明らかにし(三)、
    • それに依拠して、スメント憲法学説の構造に、政治的体験による国家理論の基礎づけという考え方が存立することを明らかにする(四)。[p.271-272]

(三)から読んだほうがよかったかも。

約束事

(68) なお、本稿では、国家理論、憲法理論、国法理論といった三つの学問領域を包括するものとして、憲法学説という概念を用いることにする。

  • 勿論、わが国では、このような概念は一般的でなく、憲法に関する学問領域として、憲法学、国法学という概念が用いられるのが通例であろう。
  • しかしながら、ドイツ理論においては、特に本稿が主たる考察対象とするスメント理論では、
    • 広義の国法学の概念の下、
      • 国家理論、憲法理論、国法理論、或いは、
      • 国家学、憲法学、(狭義の)国法学が、
        相互に異なるものとして了解されており、
  • わが国で通常用いられる憲法学と国法学の概念を本稿で、漫然と用いれば、こうした特定の意味をもつ概念としての、憲法理論、国法理論、或いは、憲法学、(狭義の)国法学を指示することになってしまう。

こういった事情から、本稿では、憲法学説という概念を導入する。

訳語のお約束

  • Wirkungsweise der Wissenschaft : 科学の作用態様
  • Lebensäusserungen : 生外化

小括

結局のところ、スメントの憲法学説は、

  • 諸々の憲法の仕組を、憲法全体の動態的、生理学的な了解から展開するという意味で、法を担う生の諸力と根本諸規範から法を把握する考え方、
  • 諸々の憲法の仕組を、社会学的に基礎づけられた憲法理論から探求するという意味で、法を、現在的で必然的な生の権力と現実として力強く証拠立てる考え方であり、

スメントの法史学も、歴史上の諸制度を、

  • その歴史的展開全体から、そして、世界の歴史的展開全体から検討するという意味で、政治的生法則と政治的倫理の発展を探求する考え方であり、

更には、スメントの教会法学も、教会の本質を、

  • 聖書と信仰から出発して検討するという意味で、教会を生の権力として把握する考え方、
  • この教会の活動を聖書と信仰に合致させて吟味するという意味で、教会活動を生の現出として把握する考え方である.

詰まるところ、スメントの憲法学説も、法史学も、教会法学も、全て、個別的事実の背後に潜む、生の価値、生の力、生の法則、生の権力を探求する科学という、スメント独自の科学観を、反映し投影し反している訳である。[p.338]

初期仏典のようなリフレインがだんだん心地よくなってきた wwww


さて、ではこの絵に描いた餅のような議論が、具体的にはどのように展開しうるというのでしょうか。以下次号を待て!


※文献