涜書:塚本『現代の解釈学的哲学』/ルーマン『社会的システムたち』

トッシキスレ。

現代の解釈学的哲学―ディルタイおよびそれ以後の新展開 (SEKAISHISO SEMINAR)

現代の解釈学的哲学―ディルタイおよびそれ以後の新展開 (SEKAISHISO SEMINAR)

「行為システム」論の絡みで、〈体験/経験〉とか〈表現-理解-解釈〉とか〈作用連関〉とかあれこれの解釈学的ジャーゴンを再確認しておこうと思い、再読。

確認の役にはたったからまぁいいけど、著作としては★二つくらいですな。


あとは引き続き──佐藤俊樹(2000/2005isbn:4326601884によって参照されている──「コミュニケーションは観察できない」問題。

4章。http://d.hatena.ne.jp/contractio/19840104#p8
問題の中心は、

  • 基底的自己準拠*における自己観察とは、帰属による行為の構成**(という複雑性の縮減)であり、
  • この(行為の構成といういみでの)基底的な自己観察は、基底的自己準拠においていつも常に生じており、
    個々のコミュニケーションは、その都度〈行為〉としてしつらえ直されて(=縮減されて)おり、
    基底的自己準拠は、まさにそのことによってドライブされている。
  • そしてそれが、「コミュニケーションは観察できない(観察しうるのは「構成済み」の〈行為〉だけである)」という主張の根拠となっている。

といえるのか──ルーマンは確かにそう言っているのか──どうか、ということ。

* ひとのいう〈社会システムのオートポイエーシス(a.k.a DQNアトラクター
** エリザベス・アンスコムさまのいう「(行為の)再記述」。


多くの解釈者たち*は、この問いに肯定的に答えてきた。 が、もしもそれが正しいのなら、それがいみするのは ルーマンの議論はディフェンスできない、ということでありうる**。

* ex. 西阪[1990]、馬場[1996]。そしてかつての私。
** 西阪[1990] を糞真面目に受け取るならば。


幸か不幸か、ルーマンは別の箇所では、上記の解釈とは直接にコンフリクトを起こすことを たくさん述べている(たとえば4章6節とか11章3節とか)。 だとすると、

  • 解釈者たちの解釈がおかしい

という可能性のほかに、

という可能性も検討してみる余地がある、ということになるが。