トッシキスレ。
現代の解釈学的哲学―ディルタイおよびそれ以後の新展開 (SEKAISHISO SEMINAR)
- 作者: 塚本正明
- 出版社/メーカー: 世界思想社
- 発売日: 1995/10
- メディア: 単行本
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確認の役にはたったからまぁいいけど、著作としては★二つくらいですな。
あとは引き続き──佐藤俊樹(2000/2005isbn:4326601884)によって参照されている──「コミュニケーションは観察できない」問題。
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- ニクラス・ルーマン[1984→1993]、『社会システム理論〈上〉』
4章。http://d.hatena.ne.jp/contractio/19840104#p8
問題の中心は、
- 基底的自己準拠*における自己観察とは、帰属による行為の構成**(という複雑性の縮減)であり、
- この(行為の構成といういみでの)基底的な自己観察は、基底的自己準拠においていつも常に生じており、
個々のコミュニケーションは、その都度〈行為〉としてしつらえ直されて(=縮減されて)おり、基底的自己準拠は、まさにそのことによってドライブされている。- そしてそれが、「コミュニケーションは観察できない(観察しうるのは「構成済み」の〈行為〉だけである)」という主張の根拠となっている。
といえるのか──ルーマンは確かにそう言っているのか──どうか、ということ。
多くの解釈者たち*は、この問いに肯定的に答えてきた。 が、もしもそれが正しいのなら、それがいみするのは ルーマンの議論はディフェンスできない、ということでありうる**。
* ex. 西阪[1990]、馬場[1996]。そしてかつての私。
** 西阪[1990] を糞真面目に受け取るならば。
** 西阪[1990] を糞真面目に受け取るならば。
幸か不幸か、ルーマンは別の箇所では、上記の解釈とは直接にコンフリクトを起こすことを たくさん述べている(たとえば4章6節とか11章3節とか)。 だとすると、
- 解釈者たちの解釈がおかしい
という可能性のほかに、
- ルーマンが首尾一貫していない
という可能性も検討してみる余地がある、ということになるが。