涜書:ルドルフ・ベルネ「デリダと HMV」

何も読む気がしないのでおうちにある現象学の本を読みますよ。

デリダと肯定の思考 (ポイエーシス叢書)

デリダと肯定の思考 (ポイエーシス叢書)


二番目のはデリダによるフッサール批判の狭隘さ・一面性と、にもかかわらず確かに存在する貢献との双方をバランスよく論じていて よい論文だとおもいました。原論文は:


(改行とか勝手に入れました)

[...] とはいえ、フッサールの分析を(たとえば身体的主体による空間的対象の近くに関する分析がそうだが)、こうした[自己意識や理念的対象がもつ繰り返し可能性などの特権的諸現象を巡って組織されている]純粋な現前の一体系に統合してしまうのはやはり困難である。

  1. デリダ「現前化」と「再現前化」との対立フッサールによる志向性および構成に関するあらゆる分析の基盤と考えたのは悪い発想ではない。
  2. しかしそれにしても、彼の結論は、ここでもまた、性急にすぎるように思える。現前の形而上学の体系に同化することのできない「現前化」が存在するのみならず、フッサールはさらに、先行するいかなる現前化を二重化する訳でも反復する訳でもない想像のような「再現前化」の事例も叙述している。
  1. 通常の言語活動によって作用させられる指示的な現前化は、純粋に直感的な現前化のみを用いる志向的思考の至高性を脅かすものである、というのはおそらくは正しいのだろうが、
  2. それにしても、指示記号を すべての形式の再現前化の根とすることが正当化される訳ではない。


 さらに一般的にこう言うこともできる。デリダの提示しているフッサール読解の新しさも弱さも、それが言語活動という現象に注意を向けているということに由来するものである、と。

  • 現象学的還元の最終的な意味が、表現と指示とのあいだの対立においてすでに明らかになっている、と主張するのはたしかに無理があるが、
  • デリダの解釈は、この還元の意味が 言語活動のある種の理念と切り離すことのできないものだ、ということを示すには大変に有効である。
    • たとえば、超越論的現象学に固有の語法であるような言語活動を打ち立てるのが困難であるということは、この現象学を経験的世界に根付かせることの症候的表現である。
      • したがって、現象学的還元とは、超越論的意識を分離されたしかじかの世界へと追放するということではない。現象とはけっして純粋な声ではなく、超越論的意識は、メルロ=ポンティの言うように、「世界の散文」の中に書かれている。
  • とはいえ、言語活動についてのあらゆる解釈の[デリダによる]排他的評定が、フッサールが毅然と対立していた「言語中心主義」の新たな兆しなのではないか、と自問してみることもできる。
      • 論理の理念的言語活動というフッサールの構想が「ロゴス中心的」だと言うのは可能ではあるが陳腐である。それに対して、
    • 前述語的経験に特別な関心を寄せる「論理の系譜学」という彼の企図について同じことを言うのは困難である。この経験はそもそも、受動的総合のような論理的現象のみに限界づけられているものではなく、歴史の流れの本質的事実性や、世界の状態に対する倫理的責任や、社会的諸制度の理性的創始の企図や、理性神学の保証者である神の啓示といった、論理的諸現象をも問うものである。
      • こうした一連の現象は、フッサールが彼自身の「声」だけを聴いていたのなら、その執拗な呼び声を聞き分けることもなかっただろう! [p.64-65]