「哲学的文法」とはなんでしょう──黒田『知識と行為』

夕食。一気に読了。
だんだん黒田が憑依してきた。かどうかは知らんが、とりあえず読むスピードが上がってきた。

黒田亘『知識と行為 (1983年)

  • 序 章 根拠から原因へ
  • 第一章 指示という行為
  • 第二章 心身問題の根
  • 第三章 ヒトと動物の境
  • 第四章 知覚と動作
  • 第五章 時間と歴史
  • 第六章 意識・言語・行為
  • 第七章 知るにいたる道
  • 第八章 志向性と因果

これまた四半世紀前の本ですけども。勉強になりました。
なんといいますか、時間を経て、素人にも手が出せるくらいに 枯れた味わいを醸し出しておりますよ。文庫化とかしてみてはどうですかね。>誰か


■まとめ: 昔の人は偉かった。


言語の役割。「記述」再訪。

現象学」から「文法」へ──ウィトゲンシュタインフッサール批判

「判断の表現」v.s「行為」 → 言語ゲームの多様性

要約:フッサールには「構成する言語」という発想がないよ

[..] 一定の期待と、それを満足させる対象とは、期待の言語表現によっていわば文法的・論理的に結び付けられており、その関係は──たとえば空腹と食事のあいだの──経験的・仮設的な関係とは違った「内的」な性格の関係である。しかしこの内的結合の源泉を志向的統一の作用に求めるには及ばないのであって、期待とその対象とは、現に一人称の期待表現によって内的に結び付けられている。[..]
 私はこの議論にも 現象学的意味論に対するきわめて重要な、本質的な批判が含まれていると思う。

  • 意味の考察を認識の目的に従属させ、表現性の理想状態を現象学的記述の言語に見ようとするフッサールは、「私は期待する......」「私は願う......」といった言表の意味機能を、判断作用の表現 というただひとつの機能に還元してしまった。

つまり

  • これらの言表は、反省的に把握された体験を「期待」や「願望」の概念に包摂し、命名する判断作用の表現であり、
  • 表現の意味はこの作用に属する。
  • 期待や願望の体験は判断作用の対象であり、
  • その現前によって判断の意味志向を充実させる役割を受け持つだけだ、

という(L.U II-2, S.10ff., 204ff.)。 これに対してヴィトゲンシュタインのように、言葉による期待や願望の表現が反省的な判断の結果ではなく、期待の行為そのものであるような場合を認めれば、もはや言語の機能を 記述(判断の表現) のそれに限定する立場にとどまることはできない。『論理哲学論考』を『論理学研究』に結び付けていた検証主義の前提は捨てられねばならない。実際ヴィトゲンシュタインの場合、この着想は「言語ゲームの多様性」という『哲学探究』の主張に直結した。言葉を語ることは一定の生活形式に結びついた行為である、というあの根本的な認識に彼を導いたのもこの着想であったと考えられる。言葉をもってする行為の諸形態・諸契機を、社会的・制度的な諸条件も含めて細密に分析する仕事はオースティンやそのほかの人々に残された。しかし、そういう探究の地平をはじめて拓いたのは、疑いもなくヴィトゲンシュタインの洞察であった。この面だけを考えても、『論理学研究』が彼に与えた影響は深く、大きいのである。
 フッサールに戻ろう。[..] [p.321-322]

ここ再考。



「期待」

...言葉による期待の表現が[...]一定の期待 と その満足(あるいは不満足)として内的に結び付けている。期待の表現は、私の未来の体験を記述する仕方を、あるいは記述の観点を定め、それによって体験の意味そのものを定めるのである。それは記述の根底にあって記述を可能ならしめているさらに根源的な言語行為である。他人もまた、私の期待の表現を理解するかぎり、指定された その観点 から私の行動を観察し、記述し、説明するであろう。私の体験の真実性を疑うにしても、ひとまずその観点に立たねばならぬであろう。ここでは意識が言語を構成するのではなく、逆に言語が意識を構成する。意識は言葉に担われて名称的な現前の知覚を超え、非現前の対象に達するのである。こういう言語の創造的・構成的な機能を考慮しなかったことが、時間意識や相互主観性の問題に関するフッサールの考察を不十分に終わらせた最大の原因ではないかと思う。 [p.325-326]

 意味するものと意味されるものとの関係を、内的・表現的な関係と外的・指標的なそれに分けることに対しては、私は何の異論ももたない。[...] ただし、表現と指標の区別はあくまで機能的な区別として捉えるべきもので、フッサールのようにこれを「内在」と「超越」の領域的区別に結び付けてはならない。[...] 現象学的意味論を内部から脅かす難問は、すべて表現と指標の領域を分断することから生じている。私はむしろ、「現象」Phänomen と「現れ」Erscheinung を区別したときのハイデッガーの説明をなぞって、こう言いたい。

  • 表現的な記号関係は、非主題的にではあるが、指標的な記号関係においてすでにおのれを示している。

指標的な記号作用の根底をなすものとしてそのつどこれに同伴し、あるいは選考している表現的な記号作用を主題的にあらわならしめることこそ、言語と意味にかかわるわれわれの探求の課題であろう7。[p.326]

7 私はフッサールにおける「表現」と「指標」の、ハイデッガーにおける「現象」と「現れ」の、ヴィトゲンシュタインにおける「基準」Kriteriumと「徴候」Symptomコントラストは、意味論的にはみな同一の事態を指し示すものと考えている。この点についても『経験と言語』第8章を参照していただきたい。

そこで概念の論理文法分析ですよ。