「記述のもとでの行為」と「理由と因果」

昼&夕食。

「行為の志向性」in 黒田亘『行為と規範

ウィトゲンシュタインは偉かった

『哲学的文法』isbn:4469110132 における「志向作用」(Intention)の考察:

願望、期待、探求、希望、恐れ、といったような、まだ現実になっていない事態を目指す体験

すなわち志向とその充足(Erfüllung)の際立った対照をもって基本性格とする諸体験

について彼が得た洞察はこういうものだった。

  • たとえば私が友人N君の来訪を心待ちにしている場合、この期待を満足させる事実は、N君の来訪というその事実のほかにはない。
  • 期待とその満足、という二つの事実を結び付けているのは「N君の来訪」という同一の記述である
すなわち
  • 志向作用とその対象の間の関係は記述の同一性という概念的、文法的な性格の関係であって、
  • これは原因と結果の外的、偶然的な結合関係とは根本的に異なる

、という。それまではもっぱら現象学的意識記述の主題とみなされていた志向性ないし志向的関係に対し、あらたに言語論的な解明の道筋を示したものとして、ヴィトゲンシュタインのこの洞察は貴重である。[p.161]

アンスコムは偉かった

アンスコムインテンション―実践知の考察』における「意志行為」の分析:

意志行為はすべて

  • 「ある記述のもとで」(under a description)のみ意志行為であり、
  • たとえその行為について実質的には正しいとしても、元来の記述とは違った記述による任意の置き換えは許されない4

実はこの指摘は、意志行為だけではなく志向性現象に対して一般的に当てはまるのであり、アンスコム自身ものちにはその趣旨で適用範囲の拡大を図っている5。志向性と内包性(intensionality)の緊密な相互関係は多くの論者が注目するところであるが、彼女の場合はその相互関係の認識が、意志行為という具体的な問題事象の解明に遺憾なく生かされているところに特色がある。[p.161-162]

デヴィッドソンは偉かった

因果の言明に関するデイヴィッドソンの研究:

デヴィドソンは、1960年代に優勢であった反因果説の行為論に対する反定立として、まず、意図、目的、理由などの実践的な主要概念に関する因果的解釈の形成を目指した。しかしその面では必ずしも十分な成果には達せず、彼の考察の力点はその後、行為命題の論理形式への解明へ、さらに因果命題の論理形式へ、と推移している。私の観点から見て特に重要なのは、デヴィドソンが因果言明の分析においてアンスコムのもとに構想し、提起した次の重要論点である6。すなわち
  • 因果言明はふたつの出来事を因果の述語によって結び付けるが、
  • 結合されるのは たんなる外延的対象として指名された出来事 ではなく、
  • いずれも 「ある記述のもとで」特定的に指示された出来事 である

、という。このことをデヴィドソンは一般的、法則的な因果言明だけでなく、個別の因果言明にも通じる基本テーゼとしたが、それは同時に、因果言明のすべてに対して「準内包的」(quasi-intensional)な性格を認めることであった。従来は因果の言語の外延性と、志向性言語の内包性とを鋭く対照するのが哲学的な慣行であって、デヴィドソンの指摘はこの通念を大きく揺るがすものとなったのである。内包性を媒介として、志向性と因果性の距離は著しく短縮された。[p.162]