涜書:竹内聖一『実践的知識と意図』1章&2章

アンスコムインテンション―実践知の考察』検討。再訪。id:contractio:20090404 / id:contractio:20090325#p3

  • 第1章 2種類の 観察によらない知識
  1. 四肢の位置の知識
  2. アンスコムの議論
  3. アンスコムの議論に対する批判
  4. 感覚と判断内容が概念的に区別できないとはどういうことなのか
  5. 正当化なき判断がなぜ知識と呼ばれるのか
  6. 実践的知識と四肢の位置の知識の違い
  7. まとめ
  • 第2章 実践的知識をめぐる論争
  1. アンスコムのジレンマ
  2. 二要素説によるジレンマの解決
  3. アンスコムは言葉使いにおいて混乱しているにすぎないのか
  4. ジレンマからの脱出
  5. 実践的知識とアスペクト把握
  6. 実践的知識はなぜ知識と呼ばれるのか
  7. ジレンマはどのようにして解決されるべきなのか
  8. まとめ
  • 第3章 意図における知識
  • 第4章 実践的推理と実践的知識
  • 第5章 コミットメント
  • 総括と展望
  • 参考文献

大前提

  • アンスコムによる「観察によらずに知られる」という基準は、「意図的行為」の概念を、行為にまつわる「意図」「意志」「自発性」などといった諸概念を前提せずに 取り出す為に提案されたものである。[p.25]
    • 積極的定式: 行為者が 観察によらずに 自分のしていることを 或る記述の下で 知っているとき、その記述の下で行為者がしていることは その人の 意図的行為 である。

第1章 2種類の 観察によらない知識

主題
  • 「四肢の位置についての知識」と「実践的知識(=行為者が自分の行為について持つ知識」とはどう違うか。
論点
  • 「四肢の位置についての知識」と「行為者の知識」は、ともに「観察によらない知識」のサブクラスである。
    • 「四肢の位置」の例では、「観察によらない」(知覚を介して知られるわけではない)とは、──「身体感覚が介在しない」という意味ではなくて──「身体感覚が証拠となっているわけではない」ということ。[←ここがアンスコムに対する誤解の温床]
    • その際、アンスコムが問題にしているのは、「判断内容から独立に」感覚が同定できない、ということ。
      • 「感覚の同定可能性」一般が問題となっているのではない。観察によらない知識においては、「感覚」を「判断内容」から独立に同定することはできないことが取り上げられている。
  • 「四肢の位置についての知識」は、なぜ「知識」と呼びうるのか。
    • 「痛い」の文法: 「私は痛いと思っている」「私は痛いと知っている」「私は痛いと思っているが、ほんとうは痛くないのかもしれない」(といった表現ができない→「痛み」は知識ではない)
    • では、(感覚を証拠としているわけではない)「四肢の位置についての知識」は、なぜ「知識」と呼びうるのか。〜「やり方の知識」との類似性。[→詳しい議論は3〜5章で]
  • 「四肢の位置についての知識」と「行為者の知識」は どう違うのか。
    • 「四肢の位置についての知識」: 私の判断と実際の四肢の位置が違う場合、私の発言の方が誤りとされる。
    • 「行為者の知識」: 私の判断と私が実際にやっていることが一致しない場合、私のやっていることの方が誤りとされる。
      • 対照: 「すでに成立している事実から導かれる知識」の場合では、事実と判断内容が一致しなかった場合、判断内容の方が誤りとされる。(←あたりまえ)

第2章 実践的知識をめぐる論争

主題
  • 「実践的知識=行為者の知識」とは、「自分の為すことを或るアスペクトで捉えていること」に由来するのであって、知覚に由来するのではないことを示す。
論点
  • アンスコム批判 or 修正的解釈としての「二要素説」 (two factor thesis, Falvey): ex.ドネラン(1963)、野矢(1994)、永井(1986)、Jones(1961)
    →[1] 「何をするつもりでいるのか」(意図内容)は観察によらずに知られるが、[2] 「何をした事になっているのか」は観察によって知られる。[p.26-28]
  • いかにして「二要素説」に対してアンスコムの議論を擁護可能か。[33-]
      • ネーミング問題: 「[観察によらない知識、という]この語は あたかも「事実を観察することなしに、事実について真なる判断を下す事が出来る」と示唆しているように解釈できる」。[→これが誤解へと人を導いてしまう]
    • モランの「アンスコム条件」[p.33-]: 「私は 自分がそれをしていることを観察して初めて知った」と行為者が主張するとき、行為者がしていた行為に対する「なぜ」という問いは退けられる。 [『インテンション』訳書 p.17-29]
      →これによって、(1) 生理的反応、(2) 意図せざる行為、(3) 意図の実現に失敗した行為、などが「意図的行為」から除かれる。[p.34-35]
    • 著者の基本主張:
       アンスコムは「観察によらない知識」という語によって、「観察によらずに正当化された真なる判断が生じる」と主張しているのではない。
      むしろ、「自分のしていることを、ある記述の下で、観察によらずに把握しているのでなければ、その行為は意図的ではない」と主張しているに過ぎないのである。
      それゆえ、実践的知識は 自分が実際にしていることについての正当化された真なる判断であるとは限らない という点を認めても、アンスコムによる意図的行為の定義が脅かされることはない
      [p.35-36]
  • 実践的知識とアスペクト把握の近縁性
  • アンスコムのジレンマ」の解決
    • 第一の直観: 自分のしていることを知るために何かを観察する必要はない
      →「自分のしていることをあるアスペクトの下でとらえること自体は、観察に由来するものではない」 (行為者は、観察することによってはじめて自分の行為をあるアスペクトの下で把握するわけではない))
    • 第二の直観: 自分が何をしているのかを知るためには観察が必要である
      →「自分が何をしたことになっているのかを知るためには、自分のしていることを観察する必要がある」(→二要素説の主張のとおり
      • →ふたつの直観は矛盾しない。