涜書:竹内聖一『実践的知識と意図』5章&終章

アンスコムインテンション―実践知の考察』検討。再訪。

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  • 第1章 2種類の 観察によらない知識
  • 第2章 実践的知識をめぐる論争
  • 第3章 意図における知識
  • 第4章 実践的推理と実践的知識
  • 第5章 コミットメント
  1. ヴェルマンの不満
  2. ヴェルマンの議論
    (1) 自分のしていることを理解したいという欲求
    (2) 自分のしていることを知りたいという欲求
    (3) 証拠の要求
  3. アンスコムの議論との並行関係
    (1) 実践的知識が事実に選考する
    (2) 知識の内容を真にしようとするコミットメントの存在
  4. ヴェルマンの議論の問題点
  5. コミットメントの源泉
  6. 自己知や自己理解はどのようにして生じるのか
  7. 観察によらない知識はどのようにして実際の行為と一致するのか
  8. まとめ
  • 総括と展望
  1. 総括
  2. 展望
    (1) 行為者性
    (2) 二重結果の原理の再解釈
  • 参考文献

第5章 コミットメント

主題
  • 「実践的知識」は、「欲求を実現するために何をすべきか」という問いに対する行為者自身の回答である。しかし、多くの場合、これが同時に、「何をしたことになっているのか」という問いに対する正しい答えにもなっている。それはなぜなのか。
    • →実践的知識を真にしようとする行為者のコミットメントによる。
論点
  •  
  •  

総括と展望

総括

 以上の議論からも分かるように、実践的知識は、通常の知識とは異なり、世界がどうあるのかを写し取るものではない。実践的知識とは、行為者の欲求が実現されるためには世界がどうあるべきなのかを明らかにし、行為者の欲求に合わせて世界を変化させるのに役立つものなのである。言ってみればそれは、そこにあるものをただ認識することではなく、そこにないものを思い描くことなのである。[p.107]

展望
  • 行為者性について検討するには「実践的知識」に配慮する必要がある。
    • 「行為の因果説」(デイヴィッドソン)──「行為の合理化は因果的説明でもある」──に欠けているものは何か。
      • 行為者による自らの身体のコントロールは、因果説が指摘するように 欲求と信念だけを考慮に入れておけば解明できるようなものではない。なぜなら、そのようなコントロールは、行為に先立って生じるのではなく、まさに行為が生じている期間に成立しているようなものだからである。 [p.109] 
      • →ここでこそ「実践的知識」が必要とされる。にもかかわらず、「因果説」は「実践的知識」には目を向けてこなかった。
        その理由は、実践的知識が──行為の最中に役割を果たすものであって──(欲求や信念のように)行為の因果的先史に属してはいないからである。[p.109]
        同様な理由から、「因果説」は、行為の最中に行為者が周囲の環境と相互作用しているという点にも注意を払ってこなかった
  • 二重結果の原理: 1つの行為から、よい結果と悪い結果が生じる場合、以下の条件が満たされていれば、その行為をすることは許容される。
    (1) 悪い結果を生じさせることは意図されていない
    (2) よい結果は悪い結果を手段として生じるのではない
    (3) よい結果のほうが、悪い結果を上回っている。[p.110]
    • 「行為の評価」と「行為者の評価」を区別すべき。
      →二重結果の原理は──「行為の評価」ではなく──「行為者の評価」にかかわる。[p110]
      • 行為者を理解したいなら、──行為の結果だけでなく──行為者が他人に向けて開陳する実践的知識を知る必要がある。[p.111]




フランクファートってこの人か。そういや右の本、結局読んでないや。この機会に読んでみるか。

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