いかにして人は「アコーディオン効果」に悩むことができるようになるか。

答え:「行為と出来事を区別しないことによって。」

〜「人格への縮減」を見逃すことによって。


昼&夕食。本日も写経。

行為と規範

行為と規範



全150頁の教科書、ちょうど折り返し地点のところに登場する議論。いわゆる google:"アコーディオン効果" について。

我々は なぜ「アコーディオン効果」に悩む必要がないのか。

8 人格の概念

因果と責任

 ある動作の原因や結果を問題にするとき、それを 出来事の因果連鎖 に沿って考察するか、あるいは 行為の因果連関 のなかで捕らえようとするかによって、大きな違いが生ずる。行為に関しては因果解釈のこの二つの枠組みが両立し、重なり合う という この事態を正確に把握することが必要であろう。

しかしこの指摘はとくに 目あたらしいものではなく、たとえばすでに見たカントの「自然の因果性」と「自由の因果性」の区別も、基本的には同じ認識を示している。その意味で私が以下に述べる見解はカントの説と連続するが、物自体と現象の二世界説に導くという点では これに同意することができない。「出来事の因果連鎖」に対する「行為の因果連関」という、私の強調する区別は、二つの世界を分かつのではなく、同じ一つの世界についての二つの語り方を、すなわち二つの言語を対比するものである。

 さて、前章の終わりに提起した問題について考えよう。 行為における因果関係 を原因の方向に遡れば、それは基礎行為の主体たる人格存在のところで区切られる。では結果の系列についてはどうであろうか。この方向でも行為の因果連関は、不定無限 に続く 出来事の因果連関 とまったく対照的な構造を示すであろうか。──この問いは「責任」の問題、あるいは「帰責」(一定の人格的主体に責任を帰すること)の問題と密接に結びついている。

結論を先取りして言えば、
  • 意志行為の結果とみなすべきものの系列はやはり 不定無限 には続かないのであって、
    • その証拠にわれわれは、ある動作(出来事)から生ずる結果のすべてを意志行為の結果として、特定の主体に帰属させることはしない。
  • 行為主体が責めを負うべき 行為の結果 と、彼には責任のない単なる波及効果とを区別してわれわれは責任問題を語っている。
動作に続くもの

 たとえば、私が外出先から帰ってなにげなく自宅の一室のドアをあけるとしよう。ノブを掴んで回し、押しやるという動作で私はドアをあける。ところが思いがけず室内では私の知らない女性──ただし家内の友人──がそこで着替えをしており、ドアをあけた私の姿を見て大いに驚き、心臓発作を起こし、救急病院での手当ての会もなくついになくなってしまう。[...]

「結果」の分類

 右の例を手がかりにしたいちおうの整理として、行為の結果を四種類に分けることができると思う。

  • 第一は、意志行為の直接の結果である。一般に一つの意志行為はその目的によって、すなわち直接の結果として意志された事態によって定義される。
今の場合なら ドアが開く という事態が、ドアをあける行為の目的であり、もし実現するとすればその直接の結果である。
  • 第二は、行為が目的とした事態そのものではないが、その事態に伴って生ずるであろうと一般に初速され、行為者も当然それを 予期すべき 結果である。この場合には、たとえ行為者が その結果を予期しなかったとしても、行為者はその結果に対する責任を負わざるを得ない。
[...]
  • 第三は、意志行為の結果に伴って生じたが、行為者は予期せず、そもそも予期できなかったはずの偶発的な結果である。
[...]

責任問題が実際に生じた場合、行為の結果が第二の意味の結果であるか、第三のそれだるかの判別はしばしば微妙であって、重大な係争点ともなりうるだろう。

  • 第四は、たんなる波及効果であって、第三の意味の結果から さらにその結果として派生したすべての現象をこれに数えることができる。


 われわれが道徳的に、法的に、あるいは社会的に責任を問われるのは、以上四種類の結果のうち第一第二のそれに関してであって、第三種の結果は少なくとも単独では責任論議の対象とはならない。

もとより行為の当事者がその思わざる結果について深く心を痛めることはあろうが、それは常識的な責任問題のありどころとは異なる次元の問題である。

第四種の結果と責任問題とのつながりはもっと弱い。とくにもとの行為と、この種の結果すなわち波及効果とのあいだに他人の意志行為が介在する場合は、責任の問題はもっぱら第二の行為との関係でとわれ、もとの行為には及ばない。

たとえばわれわれの例で、救急病院の医者が処置を誤り、そのために婦人は死亡した、と考えられる場合である。「行為の因果連関」という観点からは、原因の系列は医師とその医師行為によって区切られ、ドアをあけた私の行為はもはやその因果連関には属さない。
アコーディオン効果

 以上、行為の因果連関は原因だけではなく結果に関しても限りのある、閉じた因果連結である ということを「責任」の問題とからめて確かめてみた。人格とその基礎行為とを基点とする垂直の因果連関として捕らえるかぎり、行為には明らかに始まりと終わりがある。「因果」概念の二つの枠組みを明確に区別しない立場では、われわれが現に認めている行為の区切りが何に由来するものなのか、明らかにすることができない。最近の分析的な行為論で、よく「アコーディオン効果」ということが問題になるが、それは右の区別を知らないひとびとの陥る困難を示すものである。アコーディオン効果とは、

行為の記述の幅は狭くも広くもとることができる、ちょうどアコーディオンの蛇腹が伸び縮みするのと同じだ、ということである。

さきの例でいえば 私の行為は、
  • 「ドアのノブを掴み、回し、押しやる」行為と記述することもでき
  • 「ドアをあける」行為と記述してもよく、また
  • 「女の人をびっくりさせる」行為、あるいは
  • 「死亡させる」行為とも記述できる。
そのように、

行為には一定した限界はない、限界は 任意に 決められる、

というのである。 これに対してわれわれは、「出来事の因果連関」と「行為の因果連関」を区別し、後者における「始まり」と「終わり」の所在を明らかにした。この見解は、われわれの社会生活を現に規定している「責任」の観念ともよく調和するのである。

「人格」という言葉

 以上述べた考え方では、行為の世界の中心をなすものは行為者たる 人格 である。[p.69-73]