藁の犬

(トラバっていただいたので*)読み返してみたところ、なんだかわたくしの言葉遣いがヘンである。

仮に「システムによる生活世界の植民地化」なる現象が生じているのだとして、しかし、ハバーマスの「システム」論では、なぜそもそもシステムはそのような たいそう大それた権能を持ちうるのかが まったくわからない[..]。

http://d.hatena.ne.jp/contractio/20071213/p5

つまり、ハバーマスの謂う「システム」──とか「道具的合理性」とか──というのは なぜそんなに強いのかわけわからんくらい無敵なほどに強い**(のが謎)、という趣旨のことを私は書いたわけであるので、それを「藁の犬」

簡単に打ち倒せるようにしつらえられた戯画的-理論的構築物──護身のために焼く、取るに足らない物(from Wikipedia──

と表現するのはおかしい。


戯画は戯画である。が、それは、無駄に強力なものに仕立て上げられた──そうすることによって、ある種の「学者」に対して恒常的に仕事を提供し、おわりなく議論を続けていけるようになっている──空想の産物だ、とかと書くべきだった。

* id:shinichiroinaba:20071219:p1
** この意味で、ハバーマスの議論は「システム至上主義的」であるといってよいと思う。


ところで/ともあれ、「コミュニケーション理性」なるもの(←何?*)については考えてみたことが無いので なにも語れることが無いですが、『啓蒙II』を読んで勉強させていただきます。

* いったいここで──実際には──何が対比されているというのか?