積んであったものを読む夕食。
デューイとハイデガー それぞれの技術論を、両者の存在論まで立ち返って比較した最終論文が面白いです。
かの有名な──というか悪名高い(?)──「危機の存するところ、自ずとまた...」というアレの、たいへん穏当な敷衍としても読める。
問題は、デューイとの対比ポイントになっている「コンテクストの偶然性」なるものの含意で、これにまるごと賛成してよいのかどうか 俄かには判断できません。要再考。
- 作者: 門脇俊介
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2007/10/18
- メディア: 単行本
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議論の射程は、結論部分のハバーマス批判を見ればおおよその見当がつくのでは。>立ち読みのひと
■第9章「存在論・プラグマティズム・テクノロジー」結論部分から [p.248-。改行およびリスト化は引用者による]
テクノロジーは、背景的理解についての無知を促進するものであると同時に、非明示的に背景的理解に依存したままであるという、二重の認知的な関係を 背景的理解との間に形成していた。この二重の認知的関係が、テクノロジーの分節化に関連する、さらに二重の問いを生み出す。 という問い、そして、という問いである。
- そうした背景は、どのような仕方で(そしてどのような機会に)開示され、明るみに出されうるのか
ユルゲン・ハバーマスは、この問いに対して、強い影響力のある解答を与えている。第一の問いに対するハバーマスの解答は(単純化をあえていとわないなら)、次のようなものである。
- 後期資本主義期においては、コミュニケーションの過程が埋め込まれている「生活世界」のコンテクストが、貨幣や権力のような「制御媒体(..)」によってその役割を奪われてしまい、あるべき規範性を構成できるためのコミュニケーションの資源を奪われてしまっている
と。ハバーマスはこの過程を「生活世界の技術化」と呼ぶ。第二の問いに対する解答。
- 生活世界がこの「制御媒体」の抑圧から解放され、そのコミュニケーションの資源が回復されるためには、生活世界に住まっているわれわれが、近代の道具的合理性といまだに分離されていないコミュニケーション的合理性を、理念的な民主的討議を確立する能力として従前に発展させることができるように、われわれ自身の生活形式を変えていかなければならない。
ハイデガーは、生活世界のコンテクストの類比物(正確な等価物ではない)としての背景的理解が、理性的な制御の外部にあるシステムによる「植民地化」を蒙っていること、こうした植民地化が背景的理解に対する認知的な接近の可能性に特にかかわっていることに関しては、ハバーマスに同意するだろう。しかし、システムが理性的な制御の外部にあるというこの見方は、深刻な問題を突きつけてくるだろう。[すなわち、]もしシステムが、コミュニケーションの基盤を因果的に支配する外在的な要因のゆえに制御不可能なのだとしたら、システムによる支配は、認知的・コミュニケーション的な意味の核に達しないだろうし、生活世界に対してシステムが有意味な関連性をもつということも言えなくなるだろう。
ハバーマスはこの懸念に対して、
- システムによる支配は近代の道具適合理性の拡張に由来するのだ、
と応答しているように思える。だがこの応答は、今述べた懸念に換えて、
- 拡張された道具的合理性がどのようにコミュニケーションの基盤を隠微してしまうのか、
また、
- われわれはこの隠微からどのように解放されてコミュニケーションの基盤を再獲得できるのか
という問いを生じさせる。ハイデガーならハバーマスの応答に対して次のように応じるだろう。
- 道具的合理性をどのように拡張し複雑化したとしても、道具的合理性が それ単独で生活世界を規制することは不可能である。なぜなら、命題的内容の形式をとったルールの束としての──ハバーマスが構想する限りでの──道具的合理性は、背景的理解を欠いては、その適用に必要な適切な関連性を与えることができないからである。
さらに、われわれのコミュニケーション的合理性のみでは、道具的合理性に対抗することはできないとハイデガーなら主張するだろう。平等な権利を与えられた参加者の間での明示的に開かれた対話だけで、偶然性を蔵するコンテクスト性によって非明示的な仕方で支えられている機能的全体を、打ち破るのに必要な資源は提供できない。背景的な理解が変わることが要求されているのだと。ところがハバーマスは、支配的なテクノロジー的システムが生活世界に根付くのは、「法的制度」によってのみであるという主張を続けるのである*。
ハバーマスの謂う「システム」──そしてまた「道具的合理性」──とやらは藁の犬、というまとめで。
えぇとね。ここでついつい、
- 「道具的合理性に対抗するのにコミュニケーション的合理性では足りないかどうか(足りないなら何を足せばいいか)」
- 「“それだけ”じゃ足りなくても、でもそれを謂うこと“自体”には意味あるんじゃね?」*
とか発想しがちなわけですが。
でもそっちへ進む前に、こういう場合はまず、そもそも問いの立て方を間違ってないかどうかを考えたほうがいいわけですよ。
「私が語っているのが理想に過ぎないことは認める。しかし各人が理想に向けて努力することは、たとえその理想が虚だとしても、結果的に各人の間の了解可能性を高めることに貢献してくれると期待できる」 http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20071111/p1
■追記:id:contractio:20071219