来年夏へ向けたシンポジウムの準備。
socio-logic.jp
第10章 ハイデガーと分析哲学
引用1(pp. 209-210):
ライルからのハイデガーへの最大の苦情は、根源的ボキャブラリーを駆使して日常的な実践的参与の様式へと帰っていくハイデガーの分析がすでに、現実についてや、あるものがどんなものであるかという認識内容を含みこんだ 知識 を用いているという点にある。ライルの指しているのはおそらく、道具を用いた日常的な現存在の参与が、道具の配置された世界と ある種のカップリングを形成しているという環境主義的な認知観だろう。ハイデガーはそこから知識を 派生させようとする が、実はそこにはすでに知識のカテゴリー的な活動がある。ライルは述べる。
われわれの「事物」についての知識を、道具に対する われわれの実践的態度から 導き出す〔ハイデガーの〕試みは、破綻している。なぜなら、道具を用いることは、それが何であるのか、それによって何がなされうるのか、何がそうすることを求めているのかの知識を、含んでいるからである。
引用2(p. 210):
ここに二十世紀哲学史の皮肉があるように思える。ライルが批判の標的にしているハイデガーは、まさにここで、何かが現に存在しているとか、何かがかくかくであるといった命題内容をもった知識とはまったく位相を異にした知識に光を当てつつあった。すでにその知をわれわれは、ドレイファスとともに know-how と呼んでいたのであった。そしてハイデガーを批判して、どんな知識にも、そして実践的参与にすら命題内容が必要とされるかのように語っている、若きライルはのちに、命題内容を伴った know-that と、know-how の区別を論理的に明瞭にした、哲学的ヒーローになったわけである。
引用1と2のつながりが いまいちわからない。
「派生させる/導き出す」の含意がよく分からないからだな。
まぁ、重要なのはこちらの課題の方なのであるが。
[ライルにハイデガーからの影響があったかどうか、ということよりも、]ハイデガーが日常的な世界内存在に関して創出したボキャブラリー──たとえば、企投、情状性、適所性……──が、ライルが論理的な分析によって明らかにしつつあった、心の諸概念──know-how、傾向性──とのあいだに、無視できない相互理解の関係を含んでいるかもしれない、ということを考えなおす課題の方が興味深い仕事だろう。前者は、後者を先行的に開発していたかもしれないし、それどころかさらなる洗練の可能性を含むかもしれない。後者は、前者の論理的な明瞭化や根本的な変容を実現しているのかもしれない。(pp. 210-211)