涜書:ルーマン『社会の科学』

通勤読書往路。
4章「真理」&5章「システムとしての科学」ふたたび。

社会の科学〈1〉 (叢書・ウニベルシタス)

社会の科学〈1〉 (叢書・ウニベルシタス)

社会の科学〈2〉 (叢書・ウニベルシタス)

社会の科学〈2〉 (叢書・ウニベルシタス)


昼食。
6章「正当な縮減」。下巻入った。
『社会の科学』、上下巻で 1kg超。


通勤読書復路。
6章「正当な縮減」&7章「反省」。



4章「真理」VIII

 新しく見えるものはすべて、既存のものとは区別できなければならない。したがって、新しいものの認知は、[歴史的に]後の段階になって、[歴史的に]先行する構造発展にもとづいて、はじめて可能になる。新しいもの の認知は、進化の後期の産物である。そのうえ科学においては 新しさ誤謬 を、芸術においては 新しさ失敗 を区別できるようにしたければ、なおさら後期の産物になる。[今日では──少なくとも科学の分野では──「新しさ」をプラスに評価することが当たり前になっているが、しかし、]これらの区別をすることなしには、新しさをプラスに評価できない。新しいものを そもそも 新しい と評価するのは、きわめて特殊な歴史上・社会構造上の前提のもとで、はじめて可能になる。17世紀にはまだ、あたらしさ(nouveautes)の概念は侮蔑的に用いられている──宗教はもちろん、政治においてもそうである。プラスの評価のための条件は、十分な構造上の複雑性、新しいものを通常のものにする構造変化の過程の加速、そして確信が検証されないまま ある機能の文脈から 他の機能の文脈にとびうつるのを妨げるような相互依存の遮断をともなう、社会の機能的分化である。
 新しいものが 新しい と関心をもたれ評価される場合、たんに、かつては古いものが好まれ、いまは新しいものが好まれるかのような「価値変動」が起こるのではない。むしろ、古い/新しいという区別が意義をもつようになるのであって、その点に変動の本質がある。 [p.201]

 認知的な新しさと体験への縮減という限定による厳密化にもとづいて、また知識獲得という作動領域における社会的に拘束力を持つ規範の一般駅除外にもとづいて、はじめて その領域での作動を規制する特殊規範が形成される78。一般的除外が成り立つのは、もちろん作動についてであって、人格についてではない。[...] 肝心なのは、認識が 皇族のコミュニケーションにおいて真として扱われるか非真として扱われるかが、それら[法的規制や食卓での作法などなど]のことに依存しないという点である。

遺伝子工学の研究が大幅に禁止されても、行われる研究の違法性は、研究の確認内容が真か非真かには何の影響も及ぼさない。さらにわれわれは、規範の一般的除外というテーゼが、ほとんど必然的に、道徳的ないし法的に自由の余地があるという主張だと誤解されるのを、よく知っている。だが、道徳的ないし法的なコード化も、普遍的に適用可能であり、固有のプログラムにもとづいてすべての行為に適用できる。ただコードは、値と反対値が密接に連関しているために、また第三値を排除する必要があるために、厳密に分化するから、あるコードのプログラムは 他のコードにとって有効でなく、その逆も成り立つようになる。

 同様のことは、体験と行為の区別についても成り立つ。[p.202]


4章IX(真理と知覚の共生的メカニズム) 注94 に、マイケル・リンチへの参照あり。

「実験室において知覚はどのように用いられるか」問題。
  • Michael Lynch (1985) Discipline and the Material Form of Images: An Analysis of Scientific Visibility. Social Studies of Science 15
    http://www.jstor.org/pss/285307

4章「真理」X

(104) ヨアヒム・リッター [...] や その弟子たちとは異なり、われわれがここに見るのは、喪失の埋め合わせ の過程ではなく、複雑性の新しい編成である。その結果、伝統はもはや継続を義務付けなくなり、だからこそ 現在との差異意識から特別な配慮を受けるようになる。このように見ると、近代が適切な自己記述を生み出さないかぎり、歴史的差異で間に合わせなければならないことも、はじめて説明できる。[p.376]

いいこと言った。