涜書:ルーマン『社会の科学』

通勤読書往路。

社会の科学〈1〉 (叢書・ウニベルシタス)

社会の科学〈1〉 (叢書・ウニベルシタス)

3章「知識」&4章「真理」。
もう飽きてきたよ。


通勤読書復路。
4章「真理」&5章「システムとしての科学」。


4章「真理」 I

 純粋に言葉遣いのレベルでいえば、そのような[知/無知〜真/非真といった]区別をするのは こんにちでも面倒であり、とくに 非真の知識 を 無知 と区別しなければならない場合は面倒である。だがこの言葉づかいの難しさは、われわれの言葉が 過去の社会によって形成されてきたことを示しているにすぎない。知識は過去の社会にとって暗黙のうちに 真の知識[真なる知識] であり、誤謬 はそれと同じレベルの現象ではなかった。その理由もすでにわかっている。誤謬は、失敗のように、不運のように、逸脱した私見のように、不定期にしか現れないのに対して、すべての理性的なひとに見える世界の連関そのものは正常である。そのような観念世界のなかでのみ、道徳的に悪である 財を求めること もまた、誤謬のように扱うことができた(アリストテレストマス・アクィナス)。その場合にも、もちろん人間はたがいを観察できるが、それは誰がどのような区別をもちいて観察するかによって左右されない、共通の世界を前にしての話である。[p.154-155]

4章「真理」 VI

 [perfection という観念の支配のもとで、]真理の完成という概念は、非真理 を欠陥として──技術的な認識手段や反省値としてではなく──扱わざるをえなかった。非真理 と 誤謬 の明確な分化は(デカルト以前には)予見されていなかった。非真理の確定に固有の充足効果があるとは認められなかった。批判をそれ自身のために実践する事はできなかった。真理 に到達する認識の努力を終わらせること[、それが「真理の完成」の含意するところであるが、それ]が重要であるかぎり、非真理 はただ、その目標に到達していないことしかあらわせなかった。
 この観点からはもうすでに近代科学を捉えられなくなったあと、1800年頃に もう一度、真理値を 少なくとも近似的に到達可能な理想 として保持しようとする試みがなされた。完成はいわば無限の彼方に後退するが、なおも主導的理念〔idee directrice〕でありつづける。存在 と 妥当 の冷徹な区別(ロッツェ)によってはじめて、完成概念の終わりが準備された。この区別はもちろんまたそれで、自然科学と精神科学の分離にいたる、問題をはらんだ道をたどる──変更された基礎にもとづく科学的認識の条件の新たな反省をさらに進めるかわりに。[p.193]

4章「真理」 I

昨日マークしておいた「対象の分析を経由した自己吟味」という方針を、少なくともルーマン本人としては、堅持している「つもり」であることがわかる箇所:

コミュニケーションは、社会は、歴史の さまざまな段階で、この[コミュニケーション・コードの自己適用のような]問題が起こったときにどのように扱うのか、あるいはいかにしてこの問題が起こらないようにするのか、我々は探究することができる。われわれは、さしあたり社会的現実のなかで──外部から研究できるかのように!──パラドックスの「不可視化」や脱パラドックス化といった現象を研究する。この研究の成果があがれば、成果のもとになっている研究にもその成果を適用して、われわれのやり方がその固有の結果からみて科学的であると評価できるか、と問うことができる。[p.156-157]


注40 に スメントへの指示。