通勤読書往路。
2章「観察」&3章「知識」。
- 作者: ニクラスルーマン,Niklas Luhmann,徳安彰
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2009/12/01
- メディア: 単行本
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知識の獲得に指向した社会システムの分析の中で、社会学研究に必要な反省的議論を ともにやってしまおう、という企画は掛け値なく素晴らしいものであり、むしろ「社会学方法論争かくあるべし」とすら私は思う。
とはいえ、その対象は、専門的な科学的実践のシステム に限らなくても構わないはずではあるが。
というのも、私たちは──職業的・専門的なものであれ、それ以外のものであれ──日々の暮らしの中で、知識を得ようとし・他人の振る舞いを再記述したり定式化したりし・様々なことを予想したり一般化したりしているのであって、社会学的方法論も、そうした諸実践を記述・分析する中で──それらと同じ資格で、同じアプローチでもって──検討されてよいはずだからである。
それはそれとして/しかしもちろん、専門的な科学的実践のシステム が、特にその草刈り場となっても おかしくはない。
というのも、私たちは──職業的・専門的なものであれ、それ以外のものであれ──日々の暮らしの中で、知識を得ようとし・他人の振る舞いを再記述したり定式化したりし・様々なことを予想したり一般化したりしているのであって、社会学的方法論も、そうした諸実践を記述・分析する中で──それらと同じ資格で、同じアプローチでもって──検討されてよいはずだからである。
それはそれとして/しかしもちろん、専門的な科学的実践のシステム が、特にその草刈り場となっても おかしくはない。
が。
にもかかわらず──むしろ「例によって」と言うべきだろうが──議論は なぜか「理論の提示」から開始される。
なぜシステムの記述ではなく、認識論の提示から議論が始まるのか、これが私には理解できない。
そしてまた、なぜそれは「構成主義的認識論」なのか。これも理解できない。
それなりに哲学的教養があったであろうはずのルーマンが、なぜ「構成主義的認識論」などというものをスルーしてすませることができず、むしろ嬉々として もろにトラップされてしまったのか。それはほとんど、スキャンダルという形容がふさわしい事のように思われる。
復路。
3章「知識」&4章「真理」。