アンスコム再訪:「記述/描写」と「観察によらない知識(=実践知)」

夕食。『行為と規範』/現代思想2004年7月号 特集=分析哲学

「記述」ってなんですか。

「志向性」の文法

二 意志行為の志向性

 繰り返し指摘したように、意志行為・知覚・指示などの志向性を考察するときには、必ず記述という言語表現の一単位に言及しなければならない。

しかしこのこと、すなわち記述的表現を不可欠の媒体とする考察であることに、ただちに不審を抱き、非難を向ける人もあるかもしれない。
言葉による指示はよく記述的表現によってなされ、指示表現は総じて記述の省略形であるとする解釈もあるほどだからこれは別としても、
ふつうは言葉の使用を伴わない有意の動作や知覚の体験を分析するのにどうして記述という言語表現を経由しなければならないのか。知覚や意志行為の当事者と、いわゆる記述とはいったいどんな関係にあるのか。それともこれは、当事者意識と関係なく、もっぱら理論的説明のために導入された概念なのであろうか、と。


 私が「ある記述のもとで志向的」と言うときの「記述」は直接には

  • 志向的経験の当事者の、非反省的、反応的な言語表現

を指しており、第三者的な観察や説明のための表現ではない。

  • 「君は何をしているのか」とか、「どうするつもりか」という行為に関する質問、あるいは、「何が見えるか」「どう聞こえるか」といった知覚についての問いかけに答えて、即座に、
  • 「板に鉋をかけている」とか、「犬小屋を作ろうと思って」と答える12。あるいは、「数字の8がみえる」(色盲テスト)とか、「一オクターブ高く聞こえる」(音感テスト)と言って答える。

たとえ現実に問われなくても、意志行為や知覚に関しては、もし問われれば答えられると誰でも思っているだろう。これらが即座の言語的反応であるからこそ、アンスコムの言う「観察によらぬ知識」の表現たりうるのであり、この種の反応の言葉を他人の意志や感覚的体験について判定する基準とすることもできるのである。

 表現の形から言えば、ここで問題にしているのは確定・不確定の両方をあわせた記述句(英語で言えば the so-and-so, a so-and-so)であって、単独でもひとつの言語行為を成立させることのできる文とは違う。逆に言えばわれわれが問題にする記述(句)は、いわゆる記述の言語行為ばかりでなく、さまざまに異なった言語行為に用いることのできる表現である。混乱を避けるために、以下では言語行為としての記述には「描写」という言葉を当てることにしよう。描写行為の原型は、知覚的に立ち現れている事物のありさまを言葉に写し取ることであろう

が、哲学的な考察の脈絡では真と偽のあるいは性格と不正確の区別がとくに重要な意義を持つ言語行為のすべてを──たとえば観察の記録、報告、仮説の構成、説明、予測、検証等々を──表す言葉として「描写」(description)が用いられることも少なくない

。いまは適用範囲の広狭にはとくにこだわらず、描写(行為)と記述(表現)の対照にもっぱら留意する。


 というのも、

  • ひとつの経験、ひとつの事象は、「ある記述のもとで」のみ志向的な経験であり、志向的対象である

というのが文法的考察の根本原則であるが、この原則に現れる「記述」をもしもひとが「描写」の意味に読み違えるとすれば、この原則の理解は根本から損なわれる。そればかりではなくこの読みかたは、志向的経験とその言語表現の関係をすべて描写行為の場面に引き寄せて解釈する立場、すなわち「描写主義」(descriptivism)の立場に直結してしまうし、またそれに伴って、記述と言う言語的な要素を重視するわれわれの志向性解釈に対して「言語主義的偏向」を非難する動きも出てくるであろう。これは二つながらサールの志向性研究に当てはまる指摘である。私の見るところでは、サールの理論の不備と混乱の少なからぬ部分がこの「記述」と「描写」の混同に由来している。


 サールはこう書いている。行為をめぐる志向的諸現象を行為の記述に置き換えて考察することは、問題は行為そのものにはなく、われわれが行為を記述するしかたにある、と思わせる点でミスリーディングである。これに対して自分(サール)の見解では、考察の主題はあくまで記述(描写)が記述(描写)している事実にある、と。──この指摘に続けてサールは、言語をもたぬ動物の行動と人間の行為は嗜好性に関して連続的である、という「自然主義」の主張を展開して行く13


 これだけでも、サールが「記述」と「描写」の違いをまったく意識していないことは明らかである。また彼が、志向的な言語表現はあらかじめそれとは独立に成立している心的な表象(representation)を反映あるいは模写するに過ぎない、言語は志向性の本質的な構成要因ではない、と考えていることも疑う余地はない。こういう予断が志向性の解釈をどうゆがめるか、まず意志行為の分析について見ておこう。[p.195-197]

(略)


 記述の言語表現は、志向的体験をとりまき、支えている慣習的、制度的な仕組みを解明する何よりの手がかりである。視覚印象によって惹起された反応の動作が、当の視覚印象をとびこえて、じかにその物理的原因──ただしその感覚的体験と記述を等しくする物理的事象──に向かうという知覚因果の機制も、慣習的、制度的要因の考慮なしには理解することができない。たとえばオオムラサキやテーブルに関する知覚因果の経験はこれまで無数に積み重ねられ、すでにわれわれの言語のうちにその分類体系の一部として定着している。そのように制度化された因果の連関によって、一定種類の事物(原因)とそれに関する感覚的体験(結果)とはすでに概念的、文法的に結合されているのである。『志向性』の第五章が示すように、サールの考察は志向性現象の生理的・心理的な背景(..)には及びえたが、その社会的・制度的な背景には届かなかった。この面でも、たしかな文法的考察に基礎をおく因果説の優位は動かないであろう。 [p.209-210]

行為における真

 ... 期待やそれにともなう快といった志向的経験における「志向とその充足」ということと、行為における「意図とその実現」ということとは区別されなければならない。しかし、言語構造における類似性は、神秘的な内的仮定を必要としないという点と相まって、同一の仕方で両者を扱うことを求めているのである。ただし、この両者の志向的経験を表現する言語とその文法において、「記述」と言われていることに関しては、なお若干の考察を必要としている。


 黒田亘は、「言語において期待と充足とが触れ合っている」という[ウィトゲンシュタインの]先の表現に続いて

それと類比的なことが、願望、恐れ、希望についても言われえよう(プラトンは希望を<ひとつの語り(eine Rede)>だと言う)(『哲学的文法』第1部93節)

という箇所を引いて、ここでヴィトゲンシュタインが言及しているのがプラトンの『ピレボス』40A における「快」における真偽の分析であることを指摘しつつ、次のように述べている。

「私は彼の来るのを待っている」と言うとき、われわれは自分の体験を、「彼の来訪」の期待として記述しているのではない。逆に言葉による期待の表現が、はじめて現在の体験を特定の未来の出来事に結び付けているのである。([黒田]岩波『プラトン全集』月報)

 これについて黒田亘は、アンスコムの考えに拠りつつ、これをさらに展開・敷衍して、行為に関して 「私が<ある記述のもとで思考的>と言うときの<記述>は、直接には志向的経験の当事者の、非反省的反応的な言語表現を指しており[..]」と延べ、さらに観察の記録や報告、説明、予測といった「事物の有様を言葉に写しとる」という意味での「描写」に対して、このような行為における志向性がそのもとで遂行される「記述」を区別したうえで、さらに次のように述べている。

 というのも、ひとつの経験ひとつの事象は、「ある記述のもとで」のみ志向的な経験であり、志向的対象であるというのが文法的考察の根本原則であるが、[以下略]。


 実はこのような非難の矛先はサールに向けられているのであるが、記述主義からさらに進んで、その根底にある表象主義への批判はしばらく措くとしても、少なくともこのような誤解をアンスコムの分析から予め取り除くために語られているのである(..)。いずれにしても、以上の考察から得られたことは、行為における言葉の働きに関して、「描写主義」の誤謬を避けつつ、なお「行為における真」とそれを把握する「実践的知」の可能性を、どのように探ればよいかという方向性であった。[p.211-212]