描写主義的誤謬:黒田『知識と行為』

夕食。引き続き。ASIN:B000J7BU1M

言語の主要機能を「描写」だと捉えてしまうと、「こころの中を覗き込んで、体験に於いて成立している事態を描写する」みたいなビジョンに陥るよ(大意)。

志向性どうでしょう

[..] 私の見るところでは、チザムの驥尾に附して志向性の意味論的分析に励む人びとも、意識の志向性という問題現象そのものの成立に言葉の働きが大きく参与しているという基本的な事実を見落としている。だから、われわれの体験には対象への志向的関係という構造が現にそなわっているということを了解済みの事項として前提し、その上で、チザムの立てた意味論的な「志向性」規準がこの了解を過不足なく表現しているかどうか、いないとすれば何を削り、何を補ったらよいか、というように分析を進めるのである。これでは問題の眺めが変わる筈はない。こういう議論の進め方にも、体験を語る言葉の機能を、物の性質や状態や関係などを記述するときの言葉の機能と同一視するあの根強い先入見がはっきりと現れている。しかし、すでに述べたように、意識と言語のかかわりは、物と言語の関係とは大きく異なるはずである。生活の中で自分の体験を語るとき、われわれの言葉は体験にあらかじめ具わっている構造や諸規定を模写しているのではない。少なくともそれを体験と言語のかかわりの唯一根本のかたちと即断すべきではないと思う。志向性の考察において何よりも大切なのは、そういう記述主義的な偏見と、それに基づく体験物象化の錯覚を取り除くことであろう。 [p.169-170]