再訪&読了。
- 作者: 宮内洋子,マンフレート・リーデル
- 出版社/メーカー: 御茶の水書房
- 発売日: 1983/08
- メディア: ?
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- Manfred Riedel (1979) Norm und Werturteil : Grundprobleme der Ethik, isbn:3150099587
安かったので購入したが、これは買わなくてよかった....(泣
解釈学と実践哲学―法と歴史の理論によせるヘルメノイティクの新たなる地平 (1984年)
- 作者: マンフレート・リーデル,河上倫逸
- 出版社/メーカー: 以文社
- 発売日: 1984/10
- メディア: 単行本
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訳者のひとはドイツ語はさておき日本語の勉強をしたほうがいいと思いました。
目次
I-二「行為、態度、差し控えUnterlassen」
「出来事」と「事態」について。
人間は──これは経験的に真の命題である──「行為する」ばかりでなく、眠ったり、欠伸をしたり、躓いたり とさまざまに「態度をとる」。「行為」ではないが しかもとくに人間的な「態度のとりかた」の例としては、さらに、笑う、泣く のほか、悲しみ、喜び、怒り といった(伝統的には「情緒」と呼ばれる)精神的な「気分」がある。[...] 無用の曖昧さを避けるために、以下では行為と態度を区別し、「行為」を実践的基本概念として紹介する。
「行為」という概念は、[...]
- 経験的心理学の用語では、「目的的な自己計画」をいう。
- 法学の用語法によれば、行為は結果によって規定され、しばしば(法的な)責任能力のあることと同じである。しかし、行為という行為がいずれも「目的」を目指しているとは限らないし、逆に、「行為」ばかりか行為しないこと(「差し控え」)にもまた法的な責任を問えるということは忘れられてはならない。
- 科学理論の見方では、行為概念は「運動」または「原因」・「結果」の概念によって記述され、このときそれは、「出来事」という上位概念のもとにある。そこで分析的な行為理念の前提に従えば、どの行為概念も、「AはXをする」といった類似の表現とともに、「AはPということを引き起こす」という形の命題で表され、このAは「結果を引き起こした者」の名、Pは行為の結果(「成果」または「帰結」)の記述を示す13。行為はいずれも物体的な運動、あるいは運動の結果の生起(または不生起)からなる出来事Eの意味を含んでいる。そこで、行為概念は はたして、またどの程度まで一般に他の概念を借りて表現できるかということが問われることになるのである。
13 G.H. von Wright, Norm and Action, New York 1963. 参照。また変数Pについては、言語的、方法的に解釈が分かれているが、次のものを参照。Pを「引き起こす」という述語の(「因果論的な」または「目的論的な」)解釈についても同じように議論がわかれている。
- 「状態Zustand」ととるもの(A. Kenny [...])
- 「出来事Ereignis」ととるもの(R.M. Chisholm [...])
- 「変化Verenderung」ととるもの(von Wright)
[...]
日常言語の用法からすでに推測できるように、出来事(「運動」「結果」その他)の概念は、行為概念とは論理的に違った型の概念である。われわれはそれを 事態概念 と名付ける。
- 「事態」は 言明 によって表現される。
- 事態概念は行為についての言明のなかで重要な役割を果たしはするが、両者はたがいに他に還元できない。
- 区別の必然性は、行為理論の根本前提から生まれる。
- 言明 は 成立するbestehen か、または成立しない事態を表現し、それは真か、または偽である。
- 事態の 変更 を引き起こすものが 行為 であるが、それは真であることも偽であることもない。
- しかし「行為する」とはいつも変更を引き起こすことをいうとは限らない。つまりそれはまた(「望ましくない」)変更の起こることを阻止することであることもある。このことに応じて、(フォン・ライトに従えば) 生産的な (「生み出す」)行為、予防的な(「阻止する」「予防する」)行為と呼ばれる二つの根本的な行為の型が区別される。
- 第三の型をなすのは 中断的な行為、すなわち厳密な意味では生産的でも予防的でもないが、にもかかわらず事態を倫理的(道徳的、法的)に重要な仕方で変更できる 差し控え である。 [p.24-25]
- ヴリクト Norm and Action (International Library of Philosophy)
- ケニー Action, Emotion and Will
- チザム "Action, Motive and Desire : The Descriptive Element in the Concept of Action", in The Journal of Philosophy 61, 1964, S.613ff.
続けて、「分析哲学者は〈態度〉と〈倫理的差し控え〉との区別を問題にしない」という非難を挟んで 「差し控え」なるものについての分析が始まるのだが、このあたりの議論は眉唾もいいところ。少なくとも、そこに進む前に、まずはもうちょっと「出来事/事態」なるものについての分析をしてくれないと。
「差し控え」という言葉が狭義で使われるのは、
- (a) 特定の行為が 期待 されながら行われない場合。
- たとえば ものを聞かれて返事をしないとか、約束の手紙を書かないなど。
- (b) 特定の情況のもとで特定の行為が 要求 されながらおこなわれない場合。
- たとえば、緊急のときの救助を怠るなど。日常言語ではここで、「怠慢」という言葉が使われたり、或る人は相手に「責め」があるという言い方がされたりする。
すなわち、以上二つの場合は、「ふつうならば」それはなされる筈だという「合意」を前提している。[...]
- (c) 第三は直接処罰の対象となる差し控え、すなわち立法者の立法によって「許されぬ」ことと定義されている差し控えの場合である。
- たとえば「救助放棄」や「子の遺棄」(...)など。 [p.29]
せんせー、「「ふつうならば」それはなされる筈だ」というのは──「合意」じゃなくて──「規範(的予期)」じゃないんですかー。
以上、「この件でリーデルに学べることは何も無い」というまとめで。時間の無駄だった。