|
|
引用
第1章「主題の抽出:ダール批判とはなにか」
14
反行動論者たちの多くは、当時50年代に歩を速めてマルクス主義に傾斜していったライト・ミルズの立場に立脚していた。
彼らにとってみれば、ダールはいわばアメリカ資本主義体制を保守する者であり、行動論的政治学の権化であり、抑圧的なシステムとしてのアメリカを擁護する者であった。
(26) そもそも social control とは、ダーウィニズム的伝統を社会学的に適用したアメリカ社会学の専門用語であるが、今日では広く一般にも定着している。
第2章「権力:デモクラシーの過程論的理解」
75
そもそも社会行為の因果を把握すること自体は、政治学固有の問題設定ではない。どのようにしたら政治的な行為の特質が明らかになるかという展望がそこになければ単なる社会行為論でしかない(43)。
(43) この場合「政治的な」とは、「支配とはいかなるものであるか」という命題にかかわるという意味である。
91
社会理論的わくぐみによって憲法という法的制度のもつ規制機能に依拠することを退け、かつ20世紀的現実とアメリカという社会的条件に鑑みて人民主権論をも退けたダールが提示したポリアーキーは、「民主的であること」の保障を得るために、大衆社会の〈非〉活動層である人々の〈信念〉と〈信条〉にも依拠するという道筋をたどらざるをえなかったということになる。そしてこの挫折によって、やや精緻さを欠いた大雑把なアイディアである50年代の「コントロール概念」は、60年代のより科学的な分析用具としての洗練を目指す格闘のなかで理論的動揺を示し、皮肉なことに〈脱〉行動論化していったのである。
これが仮に「ダールの研究遍歴」に対する記述として正しかったのだとしても、「特にそうなる必然的理由はなかったのだが実際にはそうなった」以上のものとは思えない。
91
ダールの権力論を検討することで浮上してきたのは、この過程で生じた様々な格闘とともに、その理論を背後から支えている社会的信条体系の重要さである。行動論的 政治学が志向した権力分析は、いくつもの困難に遭遇するなかで、いわば「分析から処方(prescription)へ」といたるための規範領域の必要を逆に照らし出したともいえるだろう。この信念や信条、つまり広義における「政治文化」の問題は、以後ダールの政治理論に一貫して示されることになる。… 主題は、権力から規範としての信念体系へと移る。
「文化とパーソナリテイ」が行動科学の基本概念であったことも、たまには思い出してあげてください。
第3章「信念:ポリアーキーをよしとするリーダーの規範」
113
間接的影響力を行使すると想定されているのは、ポリアーキーにおける非リーダーであり、また一方でポリアーキーにたいする貢献は、リーダーによってなされるとダールが考えるならば、「機能的視角からやや離れたところから、ポリアーキーの担い手としての「デモス」を彼がどのように捉えているのか、どのような規範的展望を描いているのかを考察するのは当然
それはいいけど、「機能的視角」なるものがどのようなものなのか、著者はどこで検討したんだっけ?
第四章「主体:ポリアーキーの規模とデモス」
119 シュンペーター先生曰く
- デモクラシーとはリーダー創出の手続きであり、人々の役割は政府を創造することであり、「民主主義的方法とは、政治的決定に到達するために、個人が人々の投票を獲得するための競争的闘争をおこなうことにより決定力をうるような政治的装置」である。
140
社会集団が並列的に存在しているという図式に当てはめるには、現実の社会集団の配列はあまりに不均等であるということが認識されたのである。
なにをいまさら・・・
第六章「評価:現代民主主義理論とダール」
164
われわれはここで「ダール=行動論政治学者」という固定的な理解を相対化することはできるだろう。ダールに「行動論」のラベルを貼ることはいまやあまり意味をもたない。
こういう言い方に強く反対する必要性は感じないけど、でも「政治学における行動論とは何だったのか」ということの方は問わずに特定の誰かの学問的遍歴だけを辿るなら、こういう形式を持った結論しか導けないのではないかという気はするね。こういうやり方を進めていくと、結果としてわれわれは「実は行動論的政治学は無かった」という帰結を得るのではないだろうか。
166
ダールの格闘は権力の記述という困難な作業のたどりうるひとつのモデルケースである。この困難は、そもそも権力の記述が「もし〜であったなら…であったろう行為の変化」という社会行為の「反実仮想」=フィクションを必然的に抱え込み、その意味で概念上の構成物であることに由来している。
この指摘自体はごもっともだと思うけど、なんでこれが本も終わりのこの箇所になってようやく出てくるの???
169
そう考えているなら、どうしてこの本もそのように書かなかったのか。
194 マーレー・エーデルマン登場。
選挙によるリーダーのコントロールは、M.エーデルマン流にいえば、市民の政治的自己実現というよりもむしろ、生活世界にもとっいた「反応」なのであって、これはかならずしも投票という行動によっては認知できないものを含んでいる。」
そうかもしれんけど、それどうやって研究するんですか。
文献
- 丸山眞男「ラスウェル・権力と人格」『日本政治学会年報』(岩波書店、1950)in 『戦中と戦後の間』(みすず書房、1976)
目次:https://www.msz.co.jp/book/detail/00391.html - 飯田文雄「ハロルド・ラスウェルの政治理論(1-3)──科学・権力・民主主義」 国家学会雑誌 1990, 1992.
- 中谷義和「戦後アメリカ政治学の系譜──行動論的・多元主義的政治学の生成」 in 田口・中谷編『現代政治の理論と思想 (講座 現代の政治学)』(青木書店、1994年)→『アメリカ政治学史序説 (立命館大学法学部叢書)』(ミネルヴァ書房、2005)2章
目次:http://www.minervashobo.co.jp/book/b48793.html - Theodore J. Lowi, At the Pleasure of the Mayor: Patronage and Power in New York City, 1898-1958, (Free Press of Glencoe, 1964).
- マーレー・エーデルマン(1964→1998)『政治の象徴作用 (中央大学現代政治学双書)』中央大学出版部
目次:http://www2.chuo-u.ac.jp/up/isbn/ISBN4-8057-1212-0.htm
- セオドア・ロウィ(1969→1981/2004)『自由主義の終焉―現代政府の問題性』木鐸社