アンスコム『インテンション―実践知の考察』の中心的概念である「実践的知識(観察によらない知識)」についての検討。
結局買ってしまった&ようやく届いた。ぱらぱらする。(こんなことではリハビリの道は険しいなぁ.....)
- id:contractio:20090325#p3 / http://www.bookpark.ne.jp/cm/uths/select.asp
送料あわせると ほぼ5000円だが、ざっと一読したところの見立てでは「買う価値はあった」感じではあります。20回くらい読めばもとはとれるかな。どうせ大本は電子ファイルなのだから、PDFとかでも売ってほしいところ。
ところで、(これは──哲学ローカルな作法の問題であるので──なんら非難ではないのだが)薄さと参照文献の少なさにまず驚いた。
ちなみに著者のかたは こんな翻訳もしておられますな:
ちなみに著者のかたは こんな翻訳もしておられますな:
- ニック・ザングウィル、「加害者の動機づけ―ブラウニング・ゴールドハーゲン論争に関する一考察―」、『応用倫理・哲学論集』、Vol.3、pp.159-179、東京大学大学院人文社会系研究科・哲学研究室、2007
未来の自分のために論点をピックアップしておくよ。
反論のターゲット: 意図的行為と観察の関係に関する、やや洗練された常識的な主張
私が自分の行為について観察によらずに知っているのは、その行為において「自分が何をするつもりでいるのか」ということに過ぎない。そして、「自分が何をしたことになっているのか」は観察によって知られるのである。[p.3]
論点とテーゼ
- 「実践的知識=観察によらない知識」とは。
- それは「人が意図的に行為することを通じて、自分の行為について持つ知識」である。
- それは「ある物事をどうなすかについての知識(=方法の知識)」ではない。
-
-
- 「四肢の位置についての知識」は「観察によらない知識」の典型例ではない。[→1章]
-
- 「観察によらない知識」についての誤解。 [→2章]
- 「自分の行為について観察によらずに知ることができる」とは、「『なにをなしたことになっているのか』について、観察によらずに真なる判断を下すことができる」ということではない。
- むしろ、そこで意味されているのは、自分の行為を「〜をすること」というアスペクトの下でとらえるということなのである。
- 「自分の行為について観察によらずに知ることができる」とは、「『なにをなしたことになっているのか』について、観察によらずに真なる判断を下すことができる」ということではない。
- 「観察によらない知識」は、どのような意味で「知識」なのか。 [→3〜5章]
- 1)実践的知識は、われわれが行う実践的推理に由来する。
2)実践的推理が妥当なものであるということをはじめとするいくつかの条件が満たされているときに限り、実践的知識は知識として正当化されている。[4章] - 実践的推理は、行為者が「自分の欲求を実現する行為は何であるか」を見出すために行うものである。
=行為者は、実践的推理を通じて、自らの欲求を実現する行為を「知る」。- 欲求の内容が意図において具体化された分だけ、行為者の「知識」は増す。
- 実践的知識が「知識」であるゆえんは、──それが真である(=事実と一致している)という点にあるのではなく──、それが言及している行為を遂行することによって、行為者の欲求が充足されるという点にある。
- この意味での「知識」は、「何をしたことになっているのか」についての知識(観察によって得られる知識)とは異なるし、方法の知識とも異なる。
- それは、行為者の欲求を実現するために遂行すべき行為とはどのようなものであるかを行為者に告げ知らせるもの。
- 1)実践的知識は、われわれが行う実践的推理に由来する。
- 実践的知識が、しかし、しばしば、実際の行為についての知識(〜外界についての知識)ともなりうるのはなぜか。 [→5章]
- ←自らの行為を実践的知識に一致させようとする行為者のコミットメントによる。