ざっくりと確認。1991年
- 作者: サイモンエヴニン,Simon Evnine,宮島昭二
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 1996/02/01
- メディア: 単行本
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しかし──「行為の理由」を「行為の原因」と認めながらも「心理物理法則」を認めない──デイヴィドソンの議論は、論争のこの19世紀的な土台を破壊してしまう可能性がある。とはいえ、そこでどのような帰結が生じるのかは 不明確なまま(であるか、私がさらなる論争の行方を知らないか、のどちらか)であるが。
「結章」から:
本書のさまざまな箇所、とくに第九章で明らかになったところによるとデイヴィドソン哲学の体系は、その内部で発生した緊張によって蝕まれつつある。これは、私の考えるところでは、デイヴィドソンがふたつのまったく異なる構想を同時に追求しようとしているためである。
- まず一方には、因果と説明にかかわる構想がある。これは出来事と因果についての彼の研究にもとづいており、行為の説明や行為の産出、心身関係など、心の哲学に属する主題を、出来事と因果という基礎的概念に照らして探究しようとするものである。
- もう一方には、解釈(学)的構想がある。こちらの方は、心的なものにとっては合理性が重要であるという彼の洞察にもとづいている。そして、この構想が描き出そうとしているところに従うならば、合理的な行為者を前にするときのわれわれの営為は、人の心的および言語的生活の全体に対して、複雑でさまざまな分節化をともなっているとはいえ、規範的な寛容の原則というものをただ適用するということにつきる。
このふたつの構想はいずれにも、命題的内容についての特徴的な理論がともなっている、あるいは、少なくとも、それぞれに適合する内容理論(...)が存在する。すなわち、
- 因果と説明にかかわる構想の方が実在論的内容理論と手を携えているのに対し、
- 解釈(学) 的構想の方は観念論的内容理論を引き連れている
のである。
このふたつの構想にはその主題に共通するところが多く、またデイヴィドソンは両者を判然と明示的に区別しているわけではない。驚くに値しないことであるとはいえ、そのため、個々の問題についてのデイヴィドソンの発言はいくつもの箇所において衝突や問題を起こし、ときには端的な不整合さえ見受けられる。
すでに見たように、デイヴィドソンがきわめて重要視しているのは、出来事は特殊者であり、この点で個々の物質的対象とまったく同じである、という説である。
- 出来事は、特殊者としていくらでも再記述を与えることが可能であり、さらに、出来事は互いに因果関係をもつことができる。
- そして、ふたつの出来事が因果関係にあるとき、この事実は、そのふたつの出来事を選び出して因果関係にあると述べるために使用される言語的装置からは完全に独立である。
- したがって、「出来事a が出来事b を惹き起こした」という主張がなされているとしても、
他の出来事の組に対して、この主張における出来事a と出来事b の記述と同じ仕方で記述が可能であるということを理由にして、そのふたつの聞にも因果関係が存在すると推論できるとは限らない。同様な帰結は、同一性にもあてはまる。特定の出来事a と出来事b が同一であるとしても、タイプa の記述を与えることのできる他の出来事に対してタイプb の記述が可能であると推論できることにはならない。デイヴィドソンの言葉を借りるならば、「因果性と同一性は、個別的出来事がどのよに記述されるにせよ、それらの個別的出来事の聞の関係である」(...)。したがって、同一性と因果性に関しては、個別的出来事の聞にそのいずれの関係が成立していると主張する言明の場合でも、同じ関係が他のふたつの出来事の間ではいつどこで成立するのかについては、たとえそれら他のふたつの出来事がもとの単称主張に現れているのと同じ一般的タイプに属しているにせよ、いかなる含意がもたらされることもない。[行為と出来事]
こうした着想を基礎として、デイヴィドソンは心の哲学のふたつの重要な問題に接近していく。行為、すなわち人の行うことは出来事であり、それゆえ、行為も他の出来事や状態と因果関係に立つことができる。デイヴィドソンは、当時一般的とされていた正統的見解に真向から反対し、ある理由のために行為するとはいかなることであるかはこの方向に沿ってこそ解明できるのだと提案したのである。
- ある理由のために行為することに独特なのは、ただ行為をなしてその行為のための理由をもっているということではない。その行為がその理由を構成しているような 心的状態ないし心的出来事によって惹き起こされた、ということこそが独特なのである。
- しかし、この事実は、理由と行為とを結びつける法則の存在を含意するわけではない。
なぜなら、法則とは出来事の性質やタイプ、つまり出来事の記述によって定式化されるものであるが、いまも見たように、たとえ個別的出来事の聞に因果関係が存在しているとしても、 それら個別的出来事が 出来事のどのタイプに属しているのか ということや、 それらに適用される記述が何であるか については、いかなる仮定もできないからである。[因果説への補説としての「行為の因果的説明」]
ところがデイヴィドソンは、行為の因果説にも非法則論的一元論にも、私がいまこれまで記述してきたような仕方のままで満足しているわけではない。いずれの場合でも、彼はその元来の見解を他の主張によって補完しようとする。しかもそれは、 出来事の間 にその記述の仕方とはかかわりなく成立している関係ではなく、 記述のもとにある出来事の間 に、つまり、 出来事のタイプや性質の間 に成立するような関係についての主張なのである。
行為の因果説の補完主張とは、 理由はただ行為を惹き起こしているばかりではなく、行為を因果的に説明している、というものであった。因果は、出来事をその記述の仕方とはかかわりなく関係づける。だが、因果的説明の場合には、これとは異なり、 出来事や状態のタイプの聞に何らかの一般的結合が存在する 必要がある。したがって、
- ある理由がある行為を因果的に説明しているならば、そのときの 理由と同じ種類に属している状態や出来事 と、そのときの 行為と同じ種類に属している出来事 との間に、ある種の一般的結びつきが存在していなければならない。
そして、
- こうした一般的結びつきを述べる言明は、心理物理法則や心理法則そのものであるか、あるいはそれらに近いもの になってしまうだろう。
デイヴィドソン自身は、ここに含まれている一般化を純粋な法則から区別することをもってこれに対処しようとしていたが(...)すでに見たように、ここで彼の見解にある種の緊張が存在していることは疑いえない。
[付随説]
非法則論的一元論についてなされた補完主張は、心的状態は物的状態に付随するというものであった(...)。付随性とは、心的状態の帰属や存在に対して一定の物的状態の存在を課すある種の制約である。すると、ここでもまたデイヴィドソンは、心的なものと物的なものとの間にある種の一般的結びつきが存在するとする方向へと傾きつつあり、心的なものについての非法則論の徹底という彼の立場と折りあいがつかなくなってしまっている。
ふたつのどちらの場合においても、補完主張はそれぞれの中心的主張と論理的にはまったく独立している。だが、いずれの中心的主張も、それぞれの補完主張なしではほとんど魅力のないものになってしまうだろう。しかし、心的なものについての非法則論と寛容の原則とから導かれる観念論的内容理論に抵触し、実在論的内容理論を必要としているのは、中心的主張ではなく、補完主張の方である。付随性という説と理由は行為を因果的に説明するとする説は、そのいずれにも、ある見解が含意されている。その見解によれば、心的状態は総合的な合理性についての考察とは独立に命題的内容をもっているのであり、しかも、ここで心的状態は、その命題的内容にもとづいて他の心的状態を惹き起こすことが可能になっている。言い換えれば、心的性質は因果関与的でなければならないのであまさにこの要求のゆえに、ふたつの補完主張はある種の心理法則や心理物理法則の存在を含意せざるをえないことになってしまう。というのは、因果関与的性質とは、その性質を所有することによって個体を因果的一般化のもとに包摂させるような性質にほかならないからである。
デイヴィドソンの議論には、「因果-説明」のための理論と「理解-解釈」のための理論とが含まれていて、それぞれの内部で分裂して・不整合をおこしているよ、という話。
とすると(やはり?)、デイヴィドソン理論を介して「精神科学-人間科学の方法論争」とか「合理性論争」とかを調停しようとする試みには望みがなさそうだ、ということになりましょうか。