おうちにある本を読むよシリーズ。1985年刊行。
- 作者: 丸山高司
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 1985/12/01
- メディア: 単行本
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ここを中心にして、その前に「ミル v.s ディルタイ」についての解説を、その後ろに「当該問題への解釈(科)学的アプローチ」の解説をつけました、というのが基本的な構成。
しかし 間とお尻に いちいち「ハバーマスが各論者をどのように批判したか」の紹介が置いてあるので
まぁ「単著のお手軽な作り方」の参考にはなりますね(誰かが)。
いずれにしても、20世紀後半に ハバーマスがどうしてこんなにやたらと人気者でありえたのか ということは、社会学的に分析される価値のある たいへん興味深い現象であると思いました。
目次
- 序論 なぜ、いま人間科学か
- 第1章 科学的理性と歴史的理性
- 第2章 歴史と行為の説明──分析哲学──
■序論参照文献
存在を知らなかった。(カッシーラーの訳書は制覇済みだと思っていたよ....)
- 作者: E.カッシーラー,中村正雄
- 出版社/メーカー: 創文社
- 発売日: 1975
- メディア: ?
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■2章第1節「歴史の説明」。
- 要約: 「科学的説明とは因果的説明であり、因果的説明とは法則的説明である」と考えている点で、リッカート&ウェーバーおよびポパー&ヘンペルは同じ穴の狢である。しかし、このうちヘンペルを除くひとたちは、「歴史科学は(法則的)説明だけでは成り立たない」し、「一般法則は歴史的研究を導く見地を提供し得ない」とも考えている。ポパーによれば、だから「歴史の理論」などというものは存在し得ない。彼らによると、歴史科学には、──(法則的)説明に臨む前に──まず観察者による「価値関係」の設定が必要なのであり、これが「歴史的研究の特殊性」なのである。
ここまでは「よい」のだが、最後の箇所が私の理解を超えている:
リッケルトによれば、経験科学の所与は、いわゆる純粋経験ではなく、すでに認識論的に構成された「客観的実在」である。経験科学は、それぞれの認識目的に応じて、この実在をさらに加工する。したがって、経験的実在を可能成らしめる「構成的形式」と、その実在をさらに加工する経験科学の「方法論的形式」とが区別される。これに応じて、二種の「因果性」が区別される。
- 構成的形式としての「個性的因果性」、そして、
- そして自然科学の方法論的形式としての「法則」
である。このようにしてリッケルトは、
- [一方では、]経験的実在の次元において、歴史的な個性的因果性の可能性を保証し、
- だが他方では、個性的因果性が、「法則」としての因果性の迂路を通ってのみ確定可能である
と考えているのである。
実のところウェーバーも、二種の因果性を区別している。
- ひとつは、「たがいに質的に異なる現象の間の、いわば力学的な絆としての「作用」」という観念
- 他は、「「規則」への従属」という観念
である19。
- 規則ないし法則への従属において、質的な独自性は無視され、また新たなものの出現もありえない。
それゆえウェーバーは、歴史の因果性が「作用」の因果性であることを認めざるをえない。- だが他方でウェーバーは、リッケルトと同じく、法則という迂路を通ってのみ、具体的な状況の無限に多様な因果性の絡み合いの中に、「因果帰属」という可視的な太い線をひくことができると考えているのである。[p.108-109]
19 『ロッシャーとクニース』
まぁいいけど。
■2章第2節「行為の説明」
「行為」の説明を巡る、「合理的行為者」モデルによる「因果的」説明*(ヴェーバー、ポパー&ヘンペル) と「インテンション」による「論理的」説明**(アンスコム&ヴリクト)の対立について。 ──なのだが、こういう↑対比の仕方は頂けない。後者の議論が「合理的ではない」かのようではないですか***。
** こちらの議論では、意図の同定は 行為の同定と 論理的に結びついている。
■メモ
(科学的)説明」に関するヘンペルの2モデル
D-Nモデル(演繹的-法則的モデル)[ポパーモデルのヘンペル的定式:ヘンペル 1942]
L1, L2, ... Lr explanants C1, C2, ... Ck explanants ──────────────────── explandum E 説明とは、
- 一般法則(L) と 初期条件(C)とを述べる 二種の言明(説明項 explanans)から、
- 説明されるべき出来事(E)を記述した言明(被説明項 explanandum)を
- 演繹的に導出することである。
アリストテレスの「実践的三段論法(=実践的推論)」-と-ヘンペルの「合理的行為モデル」
PIモデル(実践的推論)[ヴリクト 1971]
A は、p を生ぜしめようと意図する A は、a を為さなければ、p を生ぜしめることができないと考える。 ──────────────────────────────── それゆえ、A は a にとりかかる。
つまり「実践的推論」は行為の再記述。
R モデル[ヘンペル 1965]
A はタイプ C の状況にいた A は合理的な行為者であった タイプ C の状況において、合理的な行為者はすべて x をするだろう。 ──────────────────────────────── それゆえ A は x をした。
- ドレイの「合理的説明」では、説明の根拠になっている規則は「行為の原理」と呼ばれるべき規則、つまり「C1 ... Cn というタイプの状況において、為すべきことは x である」という規範的な言明である。
- これに対してヘンペルは、「説明の有効性」を確実にするためには、この「行為の規範的原理」を「一般法則の性格をもつ言明」に変換しなければならないと主張する。[ここには問題が二つある。]
- [1]そのためには、まず「合理性」の基準を「客観的に」設定し、次にその基準に照らして、「合理的」行為の統計的頻度を測定するという手続きが必要となろう。このことによって行為説明は、すくなくともライル的な「性向的説明」として定式化されえよう。しかし、「合理性」の基準を「客観的に」設定することはいかにして可能であろうか。
しかも第二に、かりに合理性の基準が客観的に設定されたとしても、さらに重大な困難が見いだされる。
- [2]R モデルにおいては、A がタイプ C の「状況」にいたという事実、および A が「合理的な行為者」であったという事実は、A が「x をした」という事実とは 独立に確定可能であるということが前提されている。だがこの前提はまちがいであると思われる。
- ウリクトの分析方法をここで適用するならば、「Aは合理的な行為者であった」ということの確定は、「Aは x をした」ということの確定なくして不可能である[...]。このことだけからしても、Rモデルを「因果的」説明と解することはできない。[p.121-122]
R は──因果的説明をしているのではなくて──「合理的再構成」をしています。
■第4章「批判的解釈学への道」
目下の関心の外部の外ですが。
ハバーマスは「(ちゃんとした)自己反省」には超越論的基盤が必要だ、と考えた。彷徨のあげくの野合先が超越論的語用論だったよ、という話。
今日──あれだけ「流行」した──「超越論的語用論」に望みを託しているような人はもうほぼ居ない(だろう、たぶん)。
そして/しかし。
「基盤」のないところでは、ハバーマスのルーマン批判は宙に浮いてしまう。
「儲かるかもしれない選択」は「損するかもしれない可能性」とともにしか存在しない。
また「絶対損をせずに確実に儲ける方法」を追求する人は、「ひょっとしたら儲かるかも知れないあれこれのアイディア」のそれぞれを・それなりに 評価することができない。
善人であろうとする-ならば/のだとしても-、私たちは、「普通の自己反省」を普通におこないながら──そしてたまにはやはり失敗もしながら──生きていくしかない。
──と。当たり前のことを つい あえて書きたくなるような20年前の本でした。
- まとめ: 批判理論のひとは人として信用できない。
※文献
- ハーバーマス(1963)『理論と実践』 isbn:4624010353
- ハーバーマス(1968)『認識と関心』 isbn:4624010558
- ハーバーマス(1968)『技術と科学』 isbn:4582763642
- 言語哲学の根本問題 isbn:B000J8CLHS / isbn:4771001715
- 分析哲学の根本問題 isbn:4771002932