丸山高司『人間科学の方法論争』

おうちにある本を読むよシリーズ。1985年刊行。

人間科学の方法論争

人間科学の方法論争

本書の核は第2章「歴史と行為の説明」だが、ここはほぼヴリクト『説明と理解 (1984年)』の要約。
ここを中心にして、その前に「ミル v.s ディルタイ」についての解説を、その後ろに「当該問題への解釈(科)学的アプローチ」の解説をつけました、というのが基本的な構成。
しかし 間とお尻に いちいち「ハバーマスが各論者をどのように批判したか」の紹介が置いてあるので うざいことこの上ない全体としては「ハバーマス偉い」と述べる書籍になっている

そのうえで最後の最後に ディルタイの擁護をちょっとだけ置くことによって、「やっぱりディルタイ偉かった」というオチにしてあるのだが、ディルタイかわいそうだな。

 まぁ「単著のお手軽な作り方」の参考にはなりますね(誰かが)。


いずれにしても、20世紀後半に ハバーマスがどうしてこんなにやたらと人気者でありえたのか ということは、社会学的に分析される価値のある たいへん興味深い現象であると思いました。

マルクス主義者の逃げ場が他に無かったからしかたがなかった(=彼らには自己反省が欠けていた)、というシンプルな理由だけで納得しておいて いいですか?>識者

目次

■序論参照文献
存在を知らなかった。(カッシーラーの訳書は制覇済みだと思っていたよ....)


■2章第1節「歴史の説明」。

  • 要約: 「科学的説明とは因果的説明であり、因果的説明とは法則的説明である」と考えている点で、リッカート&ウェーバーおよびポパー&ヘンペルは同じ穴の狢である。しかし、このうちヘンペルを除くひとたちは、「歴史科学は(法則的)説明だけでは成り立たない」し、「一般法則は歴史的研究を導く見地を提供し得ない」とも考えている。
    ポパーによれば、だから「歴史の理論」などというものは存在し得ない。
    彼らによると、歴史科学には、──(法則的)説明に臨む前に──まず観察者による「価値関係」の設定が必要なのであり、これが「歴史的研究の特殊性」なのである。
したがって、彼らにとって「歴史科学」の課題は、「価値関係によって色付けられた個性的な出来事(ないしその構成要素)について、どのようにして 法則的知識にもとづく因果的研究を進めるか」というものになる。


ここまでは「よい」のだが、最後の箇所が私の理解を超えている:

リッケルトによれば、経験科学の所与は、いわゆる純粋経験ではなく、すでに認識論的に構成された「客観的実在」である。経験科学は、それぞれの認識目的に応じて、この実在をさらに加工する。したがって、経験的実在を可能成らしめる「構成的形式」と、その実在をさらに加工する経験科学の「方法論的形式」とが区別される。これに応じて、二種の「因果性」が区別される。

  • 構成的形式としての「個性的因果性」、そして、
  • そして自然科学の方法論的形式としての「法則」

である。このようにしてリッケルトは、

  • [一方では、]経験的実在の次元において、歴史的な個性的因果性の可能性を保証し、
  • だが他方では、個性的因果性が、「法則」としての因果性の迂路を通ってのみ確定可能である

と考えているのである。
 実のところウェーバーも、二種の因果性を区別している。

  • ひとつは、「たがいに質的に異なる現象の間の、いわば力学的な絆としての「作用」」という観念
  • 他は、「「規則」への従属」という観念

である19

  • 規則ないし法則への従属において、質的な独自性は無視され、また新たなものの出現もありえない。
    それゆえウェーバーは、歴史の因果性が「作用」の因果性であることを認めざるをえない。
  • だが他方でウェーバーは、リッケルトと同じく、法則という迂路を通ってのみ、具体的な状況の無限に多様な因果性の絡み合いの中に、「因果帰属」という可視的な太い線をひくことができると考えているのである。[p.108-109]

まぁいいけど。

リッカートのは特殊なカント主義的主張なんだろうけど、これが理解しがたいのは(俺が)用語法に惑わされてるだけ、なんだろうか???


■2章第2節「行為の説明」
「行為」の説明を巡る、「合理的行為者」モデルによる「因果的」説明*ヴェーバーポパー&ヘンペル)インテンション」による「論理的」説明**アンスコム&ヴリクト)の対立について。 ──なのだが、こういう↑対比の仕方は頂けない。後者の議論が「合理的ではない」かのようではないですか***。

* 「ゼロ方法」(ポパー)。
** こちらの議論では、意図の同定行為の同定と 論理的に結びついている。
「意図=原因|行為=結果」と見なそうとしても、この「原因」と「結果」は 論理的には 分離できない(=独立ではない)。→独立ではないものの間に「因果関係」を云々することはできない。
*** これはつまり この著者のひとには「合理性」概念についての検討が欠けている、ということを意味しておりますな。




■メモ

(科学的)説明」に関するヘンペルの2モデル

D-Nモデル(演繹的-法則的モデル)[ポパーモデルのヘンペル的定式:ヘンペル 1942]

L1, L2, ... Lrexplanants
C1, C2, ... Ckexplanants
────────────────────explandum
E
説明とは、
  • 一般法則(L) と 初期条件(C)とを述べる 二種の言明(説明項 explanans)から、
  • 説明されるべき出来事(E)を記述した言明(被説明項 explanandum)を
  • 演繹的に導出することである。

I-Sモデル(帰納的-統計的モデル)[ポパーモデルのヘンペル的改鋳:ヘンペル 1942]

P(O,R) = r
i は R の試行を受ける
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━〔r〕
i は O を得る
  • R: 長期にわたって多量のタバコを吸うこと
  • O: 肺がんにかかる
  • r: (長期にわたって多量のタバコを吸うことによって 肺がんにかかる)確率
  • i: A氏
    • 「長期の間ヘビースモーカーであった(R)A氏(i)が肺がんにかかる(O)」という命題は、確率 r で導出される。
アリストテレスの「実践的三段論法(=実践的推論)」-と-ヘンペルの「合理的行為モデル」

PIモデル(実践的推論)[ヴリクト 1971]

A は、p を生ぜしめようと意図する
A は、a を為さなければ、p を生ぜしめることができないと考える。
────────────────────────────────
それゆえ、A は a にとりかかる。

つまり「実践的推論」は行為の再記述。

R モデル[ヘンペル 1965]

A はタイプ C の状況にいた
A は合理的な行為者であった
タイプ C の状況において、合理的な行為者はすべて x をするだろう。
────────────────────────────────
それゆえ A は x をした。
  • ドレイの「合理的説明」では、説明の根拠になっている規則は「行為の原理」と呼ばれるべき規則、つまり「C1 ... Cn というタイプの状況において、為すべきことは x である」という規範的な言明である。
  • これに対してヘンペルは、「説明の有効性」を確実にするためには、この「行為の規範的原理」を「一般法則の性格をもつ言明」に変換しなければならないと主張する。[ここには問題が二つある。]
  • [1]そのためには、まず「合理性」の基準を「客観的に」設定し、次にその基準に照らして、「合理的」行為の統計的頻度を測定するという手続きが必要となろう。このことによって行為説明は、すくなくともライル的な「性向的説明」として定式化されえよう。しかし、「合理性」の基準を「客観的に」設定することはいかにして可能であろうか。

しかも第二に、かりに合理性の基準が客観的に設定されたとしても、さらに重大な困難が見いだされる。

  • [2]R モデルにおいては、A がタイプ C の「状況」にいたという事実、および A が「合理的な行為者」であったという事実は、A が「x をした」という事実とは 独立に確定可能であるということが前提されている。だがこの前提はまちがいであると思われる。
    • ウリクトの分析方法をここで適用するならば、「Aは合理的な行為者であった」ということの確定は、「Aは x をした」ということの確定なくして不可能である[...]。このことだけからしても、Rモデルを「因果的」説明と解することはできない。[p.121-122]

R は──因果的説明をしているのではなくて──「合理的再構成」をしています。



■第4章「批判的解釈学への道」
目下の関心の外部の外ですが。


ハバーマスは「(ちゃんとした)自己反省」には超越論的基盤が必要だ、と考えた。彷徨のあげくの野合先が超越論的語用論だったよ、という話。

だからハバーマスは──自分の側には「基盤」がある、という(勝手な)前提のもとで──、「(基盤のない)システム論には ちゃんとした自己反省などできる筈ない」(大意)と 決めつけ親父的に非難することが出来た。
ルーマンの答え:「ふつーの反省はふつーにできるよ。あんたの言ってるような「ちゃんとした反省」なんて 誰にも──あんたにも──できないよ」(大意)

今日──あれだけ「流行」した──「超越論的語用論」に望みを託しているような人はもうほぼ居ない(だろう、たぶん)
そして/しかし。
「基盤」のないところでは、ハバーマスのルーマン批判は宙に浮いてしまう。

「善人であるための決定的で一般的な方法」なんてものは、「絶対損をせずに確実に儲ける方法」なんてものが存在しないのと同様に存在しない。
「儲かるかもしれない選択」は「損するかもしれない可能性」とともにしか存在しない。
また「絶対損をせずに確実に儲ける方法」を追求する人は、「ひょっとしたら儲かるかも知れないあれこれのアイディア」のそれぞれを・それなりに 評価することができない。
だけでなく、むしろ、おそらくは誰かに騙されるだろう。
同様に、「善人であるための決定的で一般的な方法」を追求する人は、そもそも善人であることが出来ない。
善人であろうとする-ならば/のだとしても-、私たちは、「普通の自己反省」を普通におこないながら──そしてたまにはやはり失敗もしながら──生きていくしかない。

 ──と。当たり前のことを つい あえて書きたくなるような20年前の本でした。
  • まとめ: 批判理論のひとは人として信用できない。


※文献