「文学理論」・「批評理論」概説

記事一覧:2023-08-03から1日間の記事一覧 - 呂律 / a mode distinction

テレンス・ホークス(1977)『構造主義記号論

冨原芳彰(1985)『文学の受容──現代批評の戦略』

岡本靖正ほか編(1988)『現代の批評理論1』

ラマーン・セルデン(1989)『現代の文芸批評:理論と実践』

  • p. 214 「戯曲を論じる際には読者はもちろん、観客にならねばならない。まず〈間〉を考えてみよう。形式主義者──たとえば〈新批評家〉や〈ロシア・フォルマリスト〉──ならば、その〈間〉を戯曲のテクスト中の、その効果が客観的に評価されるべき構造上の要素として扱うであろう。このような視点からは、[著者である]ピンター(またはむしろテクスト)は、ある種の語られない思考や感情が下位テクストとして存在することを仄めかしていると我々は言いうる。それ故に観客は〈間〉を解釈するときに、これらの意味を把握しようと努力することが期待されるであろう。読者志向の批評の立場から見れば、このような態度は馬鹿げている。〈間〉は明らかに決定不能なのである。つまり、我々が〈間〉を考えるとき、そこには把握されるべき客観的な意味などない。観客が積極的に隠された意味や意味で満たさねばならないのは、このような沈黙の瞬間の性質そのもの中にあるのである。」

 この論評は相当にわけがわからない。戯曲の脚本が与えられた場合でも、劇場で上演される戯曲を観る場合でも、音のない時間が挟まれれば、多くの場合には、我々はそれを誰かの沈黙として聴くことが容易にできる(できない場合には、むしろわざわざそのような効果を持つように脚本が設えられているはずである)。或る瞬間が無音であり得るのは、そしてまた或る無音が沈黙でありうるのは「瞬間の性質そのもの」のためではなく、その瞬間の周囲に配置されているものによって、である。そして、それを決めているのは脚本(と、それにもとづいて役者が舞台上で実際に行う演技)だろう。
 なので、この著者の認定のうち、まずは「〈間〉は決定不能である」がおかしい。しかも・そもそも、〈読者志向の批評の立場〉から見たって、〈間〉が「観客が積極的に隠された意味や意味で満たさねばならない」ものだ、などということにはならない。
 私としては、まず、「こういうところで「客観的」という言葉を使うのをやめろ」とは言いたくなるが、この「客観的」という語を「テクストが決めている」の意だと解した場合でも、「〈間〉を〈間〉として把握できる条件はテクストが与えている」とみなすことも、「〈間〉はテクスト内の構造上の要素である」とみなすことも、〈読者志向の批評の立場〉に反するわけではない。
 著者が なんでこのように考え(ることができ)てしまうのか、むしろ そちらのほうが理解できないよ。

川上勉編(1994)『現代文学理論を学ぶ人のために』

田辺保ほか編(1994)『文芸批評を学ぶ人のために』

土田知則・神郡悦子・伊藤直哉著(1996)『ワードマップ 現代文学理論:テクスト・読み・世界』

  • はじめに 『現代文学理論』を読むために
  • 現代文学理論相関図
  • I 構造主義詩学の展開
  • II 文学理論の記号論的転回
  • III 社会のなかの文学
    • 読者の誕生 読者とは何者か?
    • コラム どんな種類の読者が存在するのか? 読者の類型論丹生右門
  • VI テクスト理論の諸相
  • V 新たな理論展開に向けて
  • おわりに
  • 現代文学理論のためのブック・ガイド

廣野由美子(2005)『批評理論入門』

大橋洋一編(2006)『現代批評理論のすべて』

木谷厳編著(2014)『文学理論をひらく』

武田悠一(2017)『読むことの可能性:文学理論への招待』

小倉孝誠編(2023)『批評理論を学ぶ人のために』