産業社会学
人間関係/社会関係
高城和義(1992)『パーソンズとアメリカ知識社会』(岩波書店 ISBN:4000018752)
- 第六章「社会関係学科と統一社会科学運動」
- 一 「社会関係学科の創設」
- [171]
「こうして彼ら(パーソンズら)は連名で、一九四二年、「人間関係学科」の創設をコナント学長に提案する。これは学長を動かすことに成功しなかったので、翌年彼らはポール・バック教養学部長に働きかける。その結果、バック学部長のもとで新学科形成のための原案作成委員会が設置された。彼ら五人はその委員として、一九四三年夏、集中的な討議をおこない、報告書を作成する。社会人類学・社会学・社会心理学・臨床心理学の四分野を統合した、新しい学科を創設すべきであるというのが、その結論であった。この提案は、教養学部の教員会議に提出された。しかしながら戦争の進展が、この計画を一時中断させることとなる。」
- [173]
「このような社会学科、人類学科、心理学科の分裂。対立は、個人的な人間関係にとどまるものでも、またハーヴァードに固有のものでもなかった。イェール大学の「人間関係研究所」やコロンビア大学の「応用社会調査研究所」のような、学際的研究組織がすでに設立されていたことは、そうした緊張がハーヴァードにとどまるものでなかったことを、明確に示している。緊張・対立は、一九三〇年代に形成され戦後に開花する新しい学問的潮流と、旧来の正統的学問との、理論的ちがいに根ざすものであったとみなければならない。」
- [171]
- 一 「社会関係学科の創設」
〈1930年代に形成され戦後に開花する新しい学問的潮流〉に与えられた名前の一つが「行動科学」。
-
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- [174]
「一九四四年、パーソンズがソローキンにかわって社会学科長になったとき、すでに学科の再組織化は不可避である、との合意をともなっていた。一九四五年春、彼はバック教養学部長の命をうけて、全国の学際的研究の実態調査にでかけている。彼が訪問したのは、イエール大学の「人間関係研究所」、コロンビア大学の「応用社会調査研究所」、ノースカロライナ大学の「社会調査研究所」、プリンストン大学の「人口研究所」、ウエイン大学、ミシガン大学、シカゴ大学、ミネソタ大学のほか、「戦争省情報・教育局研究部」、「農務省計画調査局」などの政府機関をもふくんでいた。」
- [175] 1946年1月29日、社会学科を解体して新しい学科を創設することが決まった。
「この歴史的な教養学部教員会議の終わりの瞬間を、オルポートはつぎのように紹介している。
「午後六時、これは教員会議が散会する聖なる時間であった。一九四六年一月の会議で、学部は新しい学科の形成を承認したが、午後五時三〇分になってもなお、その名称は決まっていなかった。人間関係という名称が提案されていたが、すでにイェールに同じ名の研究所が設置されていたので、それは承認をうることがありそうもなかった。社会学・社会心理学・臨床心理学。人類学科とよぶことは、それが実態にあっていたにしても、あまりにも重苦しい名称であった。午後五時五九分ごろ、だれかが『社会関係』という名称を提案した。時間が遅かったので、その名称は討論なしで採択された。」」
- [174]
- 二 学際的学科の組織と活動
- [176]
「開設時のスタッフは、
・社会学のパーソンズ、ホーマンズ(5)、ストウフアー、ソローキン、ツィンマーマン、
・人類学のクラックホーン、
・社会心理学のオルポート、
・臨床心理学のマレー、ロバート・ホワイト、
・終身在職資格をもたない若手教員として、社会学のロバート・ベイルズ(8)、社会心理学のジエローム・ブルーナー、社会史のオスカー・ハンドリン
など、かなりの数にのぼった。
・くわえて開設直後に、数理統計学のモステラ、社会心理学のリチャード・ソロモンなど、さらに多くの若手が採用され、社会関係学科は急速に巨大な学科として成長していった。」 - 注5
「1910年ボストンで生まれたホーマンズは、1932年にハーヴァードを卒業して、ひきつづき同大学で研究をつづけ、1939年に同大学講師となった社会学者である。彼ははじめ英文学を専攻していたが、ヘンダーソンの影響のもとでパレートを学び、小集団研究ですぐれた業績をあげた。第二次大戦中彼は海軍に勤務しており、1946年からハーヴァード大学社会関係学科准教授、1980年に名誉教授となった。1963年、アメリカ社会学会会長。彼はパーソンズ・グループとは別個の、実証主義的・数量的方法を強調する立場に立った。」
- 注8
「1916年ミズーリ州生まれのロバート・ベイルズは、1940年にオレゴン大学で自然科学の修士号をえたのち、ハーヴァード大学に進学し、1945年社会学で博士号を取得した。それ以来彼はハーヴァードで小集団研究をつづけ、1957年からハーヴァード社会関係学科教授を務めるとともに、1961年、ストウファーのあとをついで第二代社会関係研究所所長を務めた。彼はパーソンズらの『行為の一般理論をめざして』の共同研究にも加わっており、そののちパーソンズと共同で、AGIL図式を考案した。」
- [179]
「ともあれもう少し具体的に、社会関係研究所の学際的研究を紹介しておこう。
・研究所は大学の予算のほかに、ロックフェラー財団、カーネギー財団、フォード財団、政府機関などから、10年間で150万ドル(5億4千万円)という巨額の研究資金をえて、多数の共同研究を組織している。
・オルポートを中心とした「集団の偏見」の研究、
・ブルーナーとソロモンの認知理論に関する研究、
・ベイルズの小集団の相互行為分析、
・ストウファーとモステラーがラザースフェルド(コロンビア大学)を招いておこなった、「社会心理学における測定」の研究
などは、その一例である。」
- [176]
- 三 国立科学財団創設をめぐる圧力政治
- 1 国立科学財団の創設
- 2 『社会科学――基礎的な国民的資源』
-
相互作用
ポール・ラザーズフェルド(1972→1984)『質的分析法:社会学論集』(岩波書店 ISBN:4000010158)
- 序章
- [003]
「アメリカヘ初めてきたとき、私は消費者調査に関する研究の検討をした。この研究は本書には再録されていないが、「市場調査の心理的側面」という題で発表した。私はこの論文で、「行為」の観念が人間の行動に関するすべての研究の中心になるべきであることを主張した。その後しばらくして、パーソンズの著名な『社会的行為の構造』が出版された。彼はウェーバーが強調した行為を手本にしたのであるが、ウェーパーの思弁的な行為のとらえ方に並行して、とくにドイツで広範な経験的伝統が現われていたことを、パーソンズは気づいていなかった。この点を顧慮して、私は「行為の経験的研究に関する歴史的考察」と題するかなり詳細な論文を著わした。」
- [003]
- 第2章「行為の経験的研究に関する歴史的考察」
- I 「ヴュルツブルグ学派――人間行為研究の初期の原型」
- II 「ドイツの「人間研究」の伝統における「行為言語」」
- 一「マックス・ウェーパーの行為論における二面性」
- 二「パーソンズによるマックス・ウェーバーの行為言語の復活」
- 後記(1972)
小集団研究:46,199,359
相互作用 133-135