昼食。瞬殺。
リーマンしか利用しないオフィスビルの本屋にこんな本が置かれるということに感銘を受けた。
昭和は遠くなりにけり。
1991-1992年におこなわれた講義の記録。『社会の法』執筆時期とだいたい重なっている。内容はそうとう緩い*けど、けど、まぁなにしろ本人の解説ですし、『社会システムたち』を傍らにおいて、副読本として読むにはいいんじゃないでしょうか。
* が、このひとの場合 論文も口述筆記で作成していたわけなので、「論文同様に緩い」ということなのですが。(なので、ほかのものを読んでわからないことは、この本を読んでもやはりわからない。)
IV 意味
中期以降のテクストで〈メディア概念〉が導入される際には、フリッツ・ハイダーとカール・ワイクがいっしょに参照されることが多い。
ハイダーについては 「ものとメディア」という
コントラストに替えて〈形式/メディア〉を用いることが、ワイクについては 〈メディア/形式〉を特徴づけるのに使われる「ルース・
カップリング」という概念が すでに
経営学でも使われていることが、それぞれ指摘される。ことが多い。
* もっとも、「
カップリング」という同じ言葉で述べられていることは ずいぶん異なるが。
なので、ルーマンのなかでこの二つの議論が近い位置にあることまでは、テクストから誰でもが読み取れることだったわけだが、講義では、ハイダーへの数十年遅れでのこの注目がワイクを経由してのことだった、ということが述べられている。[p.283]
V 心的システムと社会システム
800字づつくらいで要約してもらえませんか。>誰か
- Wil Martens, Die Autopoiesis sozialer Systeme. In: Kölner Zeitschrift für Soziologie und Sozialpsychologie, 43(1991), S.625-646
- Niklas Luhmann, Wer kent Wil Martens? Eine Anmerkung zum Problem der Emergenz sozialer Systeme. In: Kölner Zeitschrift für Soziologie und Sozialpsychologie, 44(1992), S.139-142.
■「不在者」[p.330] ──「相互浸透」という概念について
なにそれ。(原著確認のこと。>誰か)
相互浸透とは、不在者の考慮のような何事かではないかと言えます。排除されることとは、排除するということを通して、再び今居合わせているものとして取り扱われることです。(‥) 目下のところ考慮されませんが、しかし作動そのものを可能にする条件である 他の何事かが存在しないならば、作動はこれをおこなう(あるいは行わない)ために自分の選択性を利用することもできないでしょう。[p.331]
ところで、
私はターミノロジー内部での不連続性を特徴付けるためにターミノロジー内部での連続性をしばしば好むのです。[p.331]
勘弁してくれ。
人が使った言葉を意味を変えて使うのが俺は好きだ↑、と彼は述べています。
■「心的システムと社会システムの構造カップリングは言語である」という主張の例示のために電話のベルを例に出すルーマン先生萌え。
心的なものとみなされるとき、言語は、注意[という心的作用]を受け止める装置のひとつとなります。言語は人をひきつけます。このことは簡単にテストできます。言語による音とそのほかの物音を区別することは比較的簡単です。それは言語をまったく理解できなくてもです。ある特定の持続的な音を区別された一連のものとして聞くとき、みなさんは言語が問題となっていることがわかるでしょう。
もしかしたらそれは音楽かもしれません。しかしみなさんがそれをまったく理解できないならば、それはむしろ本当に問題にならないでしょう。そばを通る自動車が起こす音、あるいはエレベーターのブーンという作動音のような 言語と異なる音 では、いわれたことや考えていることを試みたり、理解するためのきっかけにはならないでしょう。
その上、言語は注意を脇にそらしたり、注意を聞き入れたりします。ですから会話の最中に、人は何か別のことにかかわることはできません。[ところで]電話のベルというひとつの音が存在します。(‥) それはまさに意図的で、人をひきつけ、厚かましい。(‥) たとえ電話に出ないと決心したとしても、結局は[我慢できずに]出てしまいます。ほかの我慢はできるのに。いったい、なぜ。言語の背後には何があるのでしょうか。わたしにはわかりません。いずれにせよ、電話音は特異なので、つい立ち上がってしまうのです。[p.342]
ここで「言語」という名前でおおざっぱにいわれているのは、「伝達として理解可能なもの」のことであるように思われるがどうか。
‥‥というのは嘘で、おそらくこの文は、「電話のベルは言語ではないのに、言語に似ているところがあって不思議」と不思議がっているものだと読まれるべきなのだろう。(しかし不思議がるほうが不思議である。電話のベルは「呼びかけ」として理解可能だから──「出ない」ことは、呼びかけを「無視する」ということだと自己理解可能なものとなり、したがって──出ないでいることが難しい、というだけのことでは?)
□ところで大黒先生の主張に反する主張が [p.345] に。(俺様メモ中俺様メモ)
VI 自己観察する作動としてのコミュニケーション
コミュニケーションを自己観察する作動として記述することができる理由がここにあります。(‥) コミュニケーションにおいては、コミュニケーションが自己を記述するために利用する区別は、伝達と理解の区別です。こうした自己観察がなければ、そもそもコミュニケーションは継続されません。 [p.373]
,o/ ∠先生!ちっともわかりません!
lミiニ!
■「索引的表現」[p.386]
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!?
「指標的表現」ね♪