- VIIとVIIIはどちらも19世紀の話。VIIとVIIIの関係がわからん。
- 長い VIII のうしろに位置する小さな節IXでは、話題の転換を宣言し、次にやることを予告している。
- 「個人の個性はどんどん強化できる」という発想を捨てようという提案。
- それに替えて論じるべきことを探索するために、例として「キャリア」と「要求」を選ぶよ、という予告。
- Xで「キャリア」を、XIで「要求」を取り上げている。
- 二つの節を使って例を見たあとで、XIIで大きな問いを立てる。
[212]「人生がキャリアの歩みを通して個人化され、要求に対する許容度が高められて要求の基礎づけが個人化されると、社会の全領域において どのような帰結が生じるのだろうか。」- 問いが大きすぎるので、XIIのこの先で行なっているのは簡単なスケッチのみ。
- それを経由して、XIIIで 社会理論の彫琢問題へと帰還して論文が終わる。
I | 05 | 古典的社会学における〈社会/個人〉:課題の提示 | |
---|---|---|---|
II | 10 | 〈包摂/社会化〉 | |
III | 06 | 〈階層分化/機能分化〉と〈包摂/社会化〉 | |
IV | 12 | 17c. 〈包摂/社会化〉と人格:17cの個人ゼマンティク | |
V | 06 | 18c. | 敬虔主義 |
VI | 12 | 18c. 〈自然/文明〉:道徳的用法と経済的用法/芸術 | 芸術 |
VII | 07 | 19c. 「主体性」は個人の居場所が社会の外にあることを象徴する | 主体と個性、自由の再定義 |
VIII | 08 | 19c. 〈個人主義/社会主義〉 | イデオロギー、文芸理論における〈原作/複製〉 |
IX | 4.5 | 反省 | |
X | 05 | 時間次元:キャリア | キャリア |
XI | 11 | システム/環境-関係:要求 | 〈快/不快〉、要求、利害関心 |
XII | 07 | 全体社会に対する個人化の効果 | キャリアによる個人化と要求の個人化が全体社会もたらす効果について |
XIII | 02 | 社会理論への帰結 |
I
- [127]「以下の考察は《代替提案》を目指しているわけではない。古典的社会学者の社会学が、すでに議論されたアイデアに関するきわめて選択的な評価に基づいていることを示したいだけである。古典的社会学者の社会学は、二つの点であまりに大雑把につくられていた。
・一つは(進行する)分化という概念についてであり、
・もうひとつは(強化可能な)個人の個性という概念についてである。
この二つの点については、より深みのある視点が求められている。その一方で、古典的な〔個性と社会の〕成長の相関関係はより複雑な輪郭を示すようになり、それによってこの相関関係は、近代社会の《進歩性》として称賛されてきた多くを失うかもしれない。」
[127]
この導入的考察によって、個人・個性・個人主義の歴史的ゼマンティクについての問いが、二重の意味で用意されている。
- 一面では、古典的社会学の成立とともに、すでに獲得されていた社会の記述や社会と個人との関係の記述に用いられていた知識が、脇に押しやられ失われてしまった可能性がある。理論の拘束力は選択的に働くので、その働きによって保持する価値のあるものが排除されているかもしれない。おそらくこの事態が、主体概念が繰り返し想起される理由の一つであろう。そこで第一の問いはこうである。すなわち、我々は思想史から古典社会学が自らに課した以上の事柄を学べるだろうか。
- 第二の問いは、すでに獲得された知識の水準に関係している。社会は個人の個性だけでなく、社会と個人の関係を記述するためのゼマンティクをも生み出す、というところから出発すべきだとしたら、史的分析はこの点についても成果を約束している。
・個性と相関している社会とは正確には何だったのか。
・相互強化関係のテーゼは、この関係のためにつくられたゼマンティクから読み取れるのだろうか。そうだとすれば、古典的社会学はそれ自身の対象領域の中に、自ら考えたことを同時に自らで遂行する一つのゼマンティクとして再び現れるのだろうか。
社会構造とゼマンティクのそうした関係をうまく示すことができれば、我々は古典的社会学の基本テーゼを検証すると同時に批判することができる。
- 検証するとは、社会の進化は社会構造を変動させるにつれて、実際に個性のゼマンティクを生み出す、という事態を示すことである。
- 批判するとは、このテーゼがそのテーゼ自体のことをも同時に述べており、それに見合うように彫琢されねばならない、ということを示すことである。
II
- [129]「すでに最初の考察で明らかなように、社会学は個人の個性について本当に真摯に問うたことがない。」
V 18c. ──敬虔主義
- [156] 新たな観念:
- (1) 個人は個人化の原理を自らのうちに含んでいる
- (2) 個性は発揮されるのであれ、生きられるのであれ、構成されるのであれ、唯一無二で比類のないものになりうる
VI 18c. 〈自然/文明〉:道徳的用法と経済的用法
- [166] 所有
- 「(機能システムに固有の)基礎に立っていたのでは個人の個性の概念を提案することはできない。」
VII 19c. 「主体性」は個人の居場所が社会の外にあることを象徴する
VIII 19c. 個人主義
VIIIの冒頭。デュモンを参照しながら自問する。
西欧では有用性や利害への志向が極めて強かったのに対して、ドイツ人は美学、全体性、人生に重きを置き過ぎていたのだろうか。一方では歴史的な人物の唯一無二性に、他方では進化の抽象的な進歩法則に重きを置き過ぎたのだろうか。マックス・ヴェーバーとエミール・デュルケーム は、この異なる伝統の中に組み込まれているため、互いを理解できないのだろうか。
そしてすぐ否定。「事情はそう単純ではない。」ここからVIII節が始まる。
「美学、全体性、人生」はVII節のトピックを指しているが、「有用性や利害」はどの節だろうか。
181-182
19世紀に、ゼマンティクと政治が大きく乱れた領域で、特別な《イデオロギー的》コミュニケーションの水準が分出する。その水準では、自然や共通に承認された価値に立ち戻ることを前提とせずに、理念や原理を攻撃したり防衛したりすることができる。このイデオロギー的コミュニケーションの水準は、(《イデオロギー主義》が作られないことを前提にして)言語学的に通常《~主義》とマークされている。個人主義はその有名な事例の一つである131。1820年代から、この新語が作られ、ただちにそれが新語であることが意識されている。個人主義は、拒絶的に論評されることもあれば、肯定的に論評されることもある132。個人主義はそれ自体が個人化されている。つまり、人々は思想態度を持ち、政治参加をするものだと考えられ、これが要求され、前提とされるとともに、擁護されることもあれば、拒絶されたりもしている。この水準では、利害(功利主義)やグローバルな進化(ダーウィン主義)を引き合いに出すこともできたし、固有の問題状況にある個人に触れることすらなく、度を越して適用された個人主義の致命的な結果を指摘することもできた。抽象的に個人を指摘するだけで十分であり、議論は個性問題によって進められるのではなく、たとえば個人主義的な基本志向と社会的な(あるいはやがて社会主義的なものになる)基本志向といったイデオロギーの水準に固有の差異によって進められている133。《個人主義》そのものは、うまく偽装された集合主義にすぎず、人間に対する集合的観念の支配の表現にすぎない。そして《社会主義》は、結果的には万人の社会的責任の免除である。イデオロギー論争ではそれを認めずに済ませることができる。なぜならイデオロギー論争では、社会主義者は個人に対する関心がないといって個人主義者を非難できないし、個人主義者は社会的態度がないといって社会主義者を非難できないからである。
- 131 語と概念の歴史については、Richard Koebner, Zur Begriffsbikdung der Kulturgeschichte II: Zur Geschichte des Begriffs >>Individualismus<<, Historische Zeitschrift 149 (1934), S. 253-293; S. ルークス『個人主義 (1981年)』を参照せよ。ほぼこれに対応することが社会主義に当てはまる。──1830年ごろに同じように明示的に反作用として新たに形成された概念である。これについては Gabriel Deville, Origine des mots >>socialisme<< et >>socialiste<< et certains autres, La Revolution Française 54 (1906), S. 385-401 を参照せよ。
最初に社会学的な理論構築を刺激するのも、このイデオロギーの前線である。なぜ社会学的な理論構築をあれほど簡単に行いえたのか(そしてただちに《古典的》なものとなったのか)を理解するためには、この事実を見なければならない。社会学的な理論構築は、イデオロギーにおける抽象化の利得を前提とし、先に(本章I節で)すでに述べたように、イデオロギーを構成する差異を理論構築の出発点の問題として反映している。したがって、おそらくジンメルを除いて
、古典社会学は個人について語る場合、個人のことを考えているのではなく、個人主義のことを考えているものと考えることができる135。この事態は 個人の自己自身についての様々な経験──過去300年の文学において内容豊かに伝えられた経験、本来なら社会学にも想像できたはずの経験──に対する独特の盲目性に行きついている。
Gabriel Deville の論文は「社会分化と個人」(SA6)、『リスクの社会学』(1991)などでも参照されている。
- 注133 リチャード・ホフスタッター(1944→1973)『アメリカの社会進化思想 (1973年) (研究社叢書)』
続けて。
「文学的な証拠によれば、むしろ、披露して社会的に証明できる個人の自己存在をまったく見つけられず、そのためまさにその自己存在の欠如から英雄的なもの──反英雄的なものであっても──を獲得する可能性しか残っていないという印象を受けるのである136。」
ここは原文確認したほうがいいですね。
- 注136:ワイリー・サイファー(1962→1971)『自我の喪失―現代文学と美術における』河出書房新社 図書館にあり
長年にわたる脱テーマ化の後に…確かに[社会学でも]個人の再テーマ化が始まったように思われる138。だがこの[社会学という]分野の古典的著作者は、そこではもはやほとんど役に立てない。彼らは、パーソナル/社会的アイデンティティという分裂したパラダイムを用いて、あるいは超越論的哲学から表面的に借用して、主体という言葉で満足し、個性の方向への掘り下げをしなかったのである。
138はベックとハーン。
183 段落を変えて。
特に解明されるべきは、個人は自己自身をどのように発見し、自己の個性の中で自己自身を決定し、向上させることができるのか、ということである。哲学は、この自己決定と自己向上の可能性を反省能力として前提とし、全体社会的、法的、社会的、階層制約的な障害が取り除かれるべきだと要求した。この前提と要求をもって、哲学は社会変動…に伴走し、変動を支え、祝福することができたのである。
哲学は時代に伴走はしたが時代を解明はしなかった、と。
184
… しかし社会学者としては、この 個人=主体 という〔社会変動に〕随伴的なゼマンティクは信頼できるのか、またどこまで信頼できるのか、このゼマンティクは 全体社会の転換の過程に寄与することによって自己の過大評価に行き着いたのではないか、と問わねばならない。
ごもっともです。
- [184] ここから生じる症候群2つ。
- a. 個性を複製によって獲得しようとする傾向
- b. 個人には複数の自己があり、そこからアイデンティティの問題が生じているという考え
a. ホモ・コピーについて
- 注139 スタンダール『恋愛論』、ハイデガー『存在と時間』、ジラール『欲望の現象学』
- 注142
ジャン・ド・ラ・ブリュイエール『カラクテール―当世風俗誌 (上) (岩波文庫)(人さまざま)』ISBN:4003251636 ISBN:4003251636
シャフツベリ Characteristics of Men
モンフォーコン・ド・ヴィラール先生曰く(1671)「現代は難しい時代である。現代は複製を好まず、書くものすべてが独創的である必要がある」。
ルーマン先生注記して曰く「この複製の低評価は、印刷術に対する反動である、と推察していいだろう」と。 - 注145 ボードレール『現代生活の画家』ISBN:448008472X
b. 個人の内面の複数性について(186-)
- [186]「内面のコミュニケーション、自我の自己自身との対話という基本モデルは昔からある。いわゆる受け手が問題となる場合には、一つの自己の中の二つの人格について語られ、動機づけの問いが問題となる場合には、二つの魂について語られる。18世紀に入るまでは、このモデルが用いられる場所は決まっている。問題となるのは、罪を犯しやすい人間の逸脱傾向に対して理性的で道徳的な自己規制を行うことである。シャフツベリ伯爵の有名な『独白』においても、いまだこうした意味付与は損なわれていない。」
- 注151 また出てきた:ヴァン・デン・ベルク(1974→1980)『引き裂かれた人間引き裂く社会』勁草書房
18世紀後半〜ロマン主義の時代とジェームズやミードの時代(19世紀末)の時代を比較していると。 - [188] ここがキモ
このような問いの立て方が18世紀末に現れ、イデオロギー的に不安定な時期を経て19世紀末に強化されたかたちで現れるのは偶然ではない。そのような個人の分解と再合成は、文学化しうるゼマンティクとして、各個人にそれぞれの生活史や役割群を割り当て、またそれぞれに偶然、機会、収入を分配する高度に複雑な社会の経験に対応している。
IX 課題の転換
X 時間次元における個人化:キャリア
XI システム/環境関係における個人化:要求
XII 全体社会に対する個人化の効果
217
①組織への要求の移動、②予期同定のための水準の分化、③一時的に過ぎない集合的結合 という三つのキーワードによって示されているのは、高度な個人化の社会的帰結である。このような事態が近代社会で起こっており、近代社会を伝統的な生活秩序から際立たせていることは、異論がないだろう。〔しかし〕この事態がどれほど重要で、近代社会の進化のチャンスにどれほど大きな影響を与えているかは、別の問題である。おそらく、かくも支配的な近代個人主義のゼマンティクは、この結果を過大評価して、社会を過度にこの観点から観察する方向に導くだろう。そのような一面性は、彫琢された社会理論によってしか修正できない。詳細にわたる研究プログラムを実行すると必ず突き当たる不確実性からは、そのような理論がいかに欠落しているかが、繰り返し読み取れるのである。
- [212] 大テーマ:「人生がキャリアの歩みを通して個人化され、要求に対する許容度が高められて要求の基礎づけが個人化されると、社会の全領域において どのような帰結が生じるのだろうか。」
この先で行なっているのは簡単なスケッチのみ。
XIII 社会理論への帰結
- [218]「自然、契約、価値理念──こうした一連の観念は、社会構造の進化が個人の包摂から排除への転換を強いる際に起こることを、社会のゼマンティクの水準で反映している。」