5-1. 技術概念の再検討

  • 3つの技術規定
    • 機能作用する単純化
    • 因果的閉鎖性
    • 制御された因果関係/制御されない因果関係


[108] 「技術」概念の内側

  • 「技術」として指示されているほうの側面は、因果関係というメディアの中で機能作用している単純化である
    • 純化されている領域の内部にタイトな(通常は、機能作用したり反復されたりなどする)カップリングが設えられている
    • こうしたタイトなカップリングが可能になるのは、外部の諸要因の干渉が大幅に排除されている場合に限られる
  • したがって、技術は作動領域の十分な因果的閉鎖性としても把握できる。
    • 技術化の成果とはそれゆえ、因果関係を多かれ少なかれ首尾よく孤立化させることであって、その結果、(1) その過程が制御可能となり、(2) 諸資源が計画可能となり、(3) 誤謬を(損耗も含めて)認識したり帰属したりできるようになる。
      • とはいっても、そもそも技術の動員可能性が実際に行使されることまで、これによって約束されているわけではない。たとえば、技術を動員する可能性のための経済的条件を考えてもらいさえすればよい。だがもし、こうした可能性を行使できるならば、個別的な因果的過程の利点を入手できる。

[108] 「技術」概念の外側

技術についての以上の記述それ自体は、何ら意外なことは含まれていないし、疑問の余地などはほとんどないと思われる。だが、この形式の他方の側面も考慮されるときにはじめて、新しい見方が評価できるようになる。すなわち、

  • 同時に進行している非常に複雑な因果的諸過程

が、である。スペンサー=ブラウンとともに定式化すれば、技術に明確な輪郭を与えている形式の他方の側面がこれである。…

[109-110] 「技術」概念の形式1

[技術と合理性を結び付けて考える古いヨーロッパのスタイルを採用する]代わりに、機能作用する単純化という技術の領域にますます多くの複雑性が添加されていく場合に、つまり、〔単純化された因果関係としての技術という〕タイトなカップリングが増大すると同時にそれによって固定されていた領域を外部から密封するのにますます失敗するようになる場合に、いったい何が起こるのか、に関心を移してみることにしたい。これまでは、この種の効果は経済によって阻止されていた。少なくともそのように思われていた。

  • 資源は利益から支払い可能なものでなければならなかったし、さもなければ技術の動員はなされなかった。
  • また廃棄物は自然に返されうるものでなければならなかったし、場合によってはコストとして引き受け可能なものでなくてはならなかった。
    • 市場、つまりは経済システムそれ自体が、この二つの点で技術の動員を制限する要因となっていた。

だが、そうこうするうちに、市場や経済もまた同様に、機能作用する単純化の一つのモデルにほかならないことが明らかになってくる──つまり技術の動員を規制するための技術的モデルの一つであり、このモデルにとっての「外部の」因果関係をなおざりにせざるをえない。かれこれするうちに「ハイテクノロジー」というかたちで現実化されてきたもの、あるいは現実化の可能性をともなってその姿がはっきりと浮かび上がってきたものは、技術に対する技術的な規制の限界を突き破ってしまっているように思われる──このような規制がしっかり機能しているときでも、また、しっかり機能しているときにこそ、そうなのである。…

ここに、「このとき、数多くの問題が互いに区別されなければならない」で始まる段落が続く。これについては後で考える。


[111] 「技術」概念の形式2

そこで技術の形式が問題となる。

  • 技術の形式は、包含されている因果関係と排除されている(にもかかわらず現実的な)因果関係との境界線をマークしている。
    • だがハイテクノロジーの場合には明らかに、たえずこの形式を規定している境界線の乗り越え、排除されたものの包含、予見しがたい仕方での横断的結びつきといった事態がもたらされる。